55 置き土産
リリアの自室だった場所は、代々聖女に割り当てられる特別な一室だ。
主がいなくとも、聖域は常に清浄に保たれねばならない。
その鉄則に従い、メイドたちは毎日掃除に入っていた。
春の穏やかな日差しが降り注ぐ執務室。
皇帝ジークヴァルドは、山積みの書類にサインを記し、報告書に目を通し、淡々と公務をこなしていた。
その静寂を、扉を叩く鋭い音が破った。
「なんだ」
「聖女の部屋を清掃していたメイドより、至急の報告が」
扉の向こうから側近が告げる。その声には隠しきれない困惑が混じっていた。
後日、ジークヴァルドの執務室には、イーサン、ゲルハルト、カイルの三人が招集されていた。
「さて。……先日、メイドがこれを見つけてきたそうでね」
ジークヴァルドの手には、小さく四つ折りにされた一枚の紙があった。
「リリアの部屋……ベッドの天蓋の内側、木枠のわずかな隙間に、隠すように挟み込まれていたらしい」
「今頃になって見つかったのですか? 清掃が行き届いていなかったということでは……」
イーサンが苦虫を噛み潰したような顔で、責任を追及するように低く唸る。ジークヴァルドはそれを宥めるように、力なく首を振った。
「いや、責めるのは酷だ。意図的に、見つからないよう隠されていたのだから。……先に、中身を改めさせてもらったよ」
ジークヴァルドはイーサンにその紙を差し出し、絶望に近い悲哀を湛えて微笑んだ。
イーサンが紙を広げる。ゲルハルトとカイルも、左右から食い入るようにその文面を覗き込んだ。
『私は前に聖女だったものです。急にこんなことをお願いするので、ごめんなさい。けれど、お願いします。あなたが、もし、ここに来て、寒気を感じているなら、どうか、すぐに返還の儀を行ってもらってください。この帝国は、魅了の力の影響で悪い方向に向かうかもしれないのです。召喚と、返還の時の聖なる力で、魅了を消せるかもしれないのです。こんなことをお願いして、ごめんなさい。でも、帝国のために、助けてください』
拙い字だった。
文章の構成も、単語の綴りも、ところどころが間違っている。
スラムという過酷な環境で育ち、文字を読み書きする習慣など皆無だった少女。召喚時の加護で言語は理解できても、文字を綴ることは彼女にとって、血の滲むような努力の結晶だったはずだ。
執務室は、墓所のような静寂に包まれた。
「魅了……だと?」
ゲルハルトが、呆然としたまま言葉を絞り出した。
腑に落ちてしまった。
自分たちが、なぜあれほど異常にセラフィーナを特別視し、リリアを疎んでしまったのか。
その全容が、あまりにも残酷な形で示された。
イーサンは紙をカイルへと手渡し、深く、長く、肺が潰れるような溜息をついた。もはや言葉にする術がなかった。
カイルは、紙に刻まれた拙い筆跡を、壊れ物に触れるように指先でそっと撫でた。
「これを見てから、過去の文献を洗い直した。……この『寒気』こそが、魅了に対する抵抗反応だったのだ。聖なる力を持つ者だけに現れる、本能的な警鐘だった」
ジークヴァルドは、あの不快な悪寒を思い出していた。
かつて王家に降嫁した聖女の血。自分の中に微かに流れるその血が、魅了の毒に抗おうとしていたのだ。しかし、薄まりすぎた血脈では、正気を保つには不十分だった。
「リリアは……すべてを知っていた。その上で、私たちの言葉に従い、返還の儀を受け入れたのだ」
ジークヴァルドの言葉に、イーサンは唇を血が滲むほど強く噛み締めた。
「あの方は……あんな瀬戸際まで、他人の心配をしていたのですか。追い出されると分かっていて……」
「この手紙も、次の聖女がいつか見つけられるように隠したんだろう。……我々が、すでに毒に侵されていると悟って」
ジークヴァルドの言葉は懺悔のようだった。
「……俺たちのこと、もう信じられなかったんだろうよ。魅了にやられて、まともな判断ができねえ連中だと思われてたんだ」
ゲルハルトがソファに深く沈み込み、顔を覆って項垂れた。
「――聖女は、処刑するのか」
唐突に、カイルが氷のような声で問いを投げた。
その場の三人が、驚愕に目を見開いて彼を見つめる。
「何を驚く。悪意があっての魅了だろう」
カイルの瞳には、かつてないほど剣呑な、狂気じみた光が宿っていた。
魅了に屈し、リリアを傷つける側に回ってしまった自分。
その耐え難い自己嫌悪を、彼はすべてセラフィーナへの殺意へと転嫁しようとしていた。
「まあ、待て」
ジークヴァルドが、静かだが拒絶できない声でカイルを制した。
「セラフィーナ自身に悪意があるとは、私には思えない。リリアを陥める言動も、私たちへの不当な要求もなかった。彼女もまた、この力の被害者である可能性は捨てきれない」
そして、ジークヴァルドは自嘲するように、自らの心臓へ手を当てた。
「……リリアを返還させる決断をしたのは、あくまで私たち自身だ」
イーサンは、肺に残った澱を吐き出すように大きく深呼吸し、いつものように無理やり背筋を伸ばした。
「……様子を見ましょう。瘴気の発生が収まっていない以上、聖女の力が必要であることに変わりはありません。ですが、これからは――」
リリアが守った帝国を、守り続けることこそが償いだと言わんばかりの、力強い声だった。




