53 空席
王城の訓練場には、鋭い金属音が絶え間なく響いていた。
剣と剣がぶつかり合う乾いた衝撃。
硬い土を蹴り上げる足音。
騎士たちの荒い掛け声。
その中心で、カイルは一心不乱に剣を振るっていた。
速い。重い。
そして、恐ろしいほどに正確だ。
だが――。
「……止めッ!」
副団長が、たまらずといった風に苦笑を漏らした。
「今日はもう十分です、団長。これ以上は、受ける方の体が持ちません」
周囲の騎士たちも、肩で息を整えながら深く頷く。
カイルは無言のまま、一拍置いて剣を鞘に収めた。
ふと、無意識に視線が泳ぐ。
訓練場の端。回廊を支える石柱の影。
以前、そこに立っていた女性の姿が脳裏を掠める。
『怖いくらい速いです。……凄いです』
そう言って、純粋な敬意を瞳に宿して目を丸くしていた顔。
カイルはわずかに眉を寄せ、奥歯を噛みしめた。
――いない。当然だ。
あいつはもう、ここにはいないのだ。
視線を無理やり引き剥がそうとした、その時だった。
「おい」
背後から、ぶっきらぼうな声が飛んできた。
ゲルハルトだ。稽古を終えて冷ややかな眼差しをこちらに向けている。
「また見てたな」
「……何の話だ」
「しらばくれんなよ。そこだよ、そこ」
顎で示された先は、やはりあの回廊の柱だった。
カイルは沈黙をもって応じる。
ゲルハルトは鼻を鳴らし、自嘲気味に口角を上げた。
「訓練場だけじゃねえ。書庫も、食堂も、庭園も……全部だ」
カイルの眉が、ぴくりと跳ねる。
「お前」
ゲルハルトは構わず続けた。
「無意識に、あいつのいた場所ばっか探してやがる」
沈黙が降りた。
風が吹き抜け、訓練場の土埃が静かに舞い上がる。カイルは拒絶するように視線を逸らした。
「……気のせいだ。任務に集中しているだけだ」
「いや。気のせいじゃねえな」
ゲルハルトが即答した。その声から、茶化すような響きが消える。
「それに。……セラフィーナに関する話を聞いてる時のお前」
カイルの目が、鋭く細められた。
「……どういう意味だ」
「簡単な話だ。比べてるんだよ、お前は」
その一言が、急所に突き刺さった。
カイルは何も言わない。だが、否定の言葉も出てこない。
「今の聖女も立派だ。でもよ、お前の顔には書いてあるんだよ」
ゲルハルトは少し間を置いて、残酷な真実を突きつけた。
「――リリアの方が良かった、ってな」
その名前が鼓膜を震わせた瞬間。
カイルの胸の奥が、万力で締め付けられるような激痛に襲われた。
言い返そうとして、喉の奥が熱く焼ける。
言葉が、形を成さない。
脳裏を埋め尽くすのは、書庫で慣れない文字を追う背中。
訓練場で驚きに満ちた顔。
食堂で、ちぎったパンを大事そうに頬張る姿。
そして。
初めての浄化で見た、横顔。
夕陽の中で、瘴気に手をかざし目を伏せていたリリア。
あの時の光景は、不思議とカイルの記憶に残っていた。
もしかしたら、あの時から。
カイルは、肺の奥に溜まった重苦しい空気をすべて吐き出すように、長く息を漏らした。
「……」
重い沈黙のあと。
ぽつりと、自分でも制御できない呟きがこぼれる。
「……そう、かもしれない」
ゲルハルトの眉が、わずかに跳ね上がった。
「へえ? 認めんのかよ」
「俺は……」
カイルは言葉を継ごうとして、再び立ち止まった。
胸に渦巻くこの感情に、ようやく名前が見つかった気がした。
それは、どうしようもなく遅すぎる自覚だった。
いない。もう、どこを探してもいない。
その事実が、これほどまでに息苦しく、耐え難い。
カイルは静かに、拒絶するように目を閉じた。
「……なるほどな。やっと気づいたか、堅物の近衛騎士団長さんよ」
ゲルハルトの声が、どこか遠くで響く。
カイルは何も答えず、ただ静かに、何度も息を吐き出した。
そして、ぽつりと。
「……遅すぎるな」
自分でも驚くほど、掠れた、小さな声だった。
ゲルハルトは、それ以上何も言わずに笑った。
「全くだ」
風がまた一つ、訓練場を通り抜けていく。
陽光に照らされた回廊の柱には、もう誰もいない。
それでもカイルは、その空白から視線を外せなかった。




