51 温度差
王城の朝は、いつも早い。
窓の外では、まだ柔らかな朝日が庭園の木々を淡く照らし出している。
セラフィーナは侍女たちに囲まれながら、いつものように身支度を整えていた。
「髪、整いました」
鏡の前で髪を梳いていた侍女が、落ち着いた所作で告げる。
別の侍女が手際よくドレスの裾を払い、最後の一人が膝をついて靴を履かせた。
「これでお支度は整いました、聖女様」
三人は揃って、深く静かな礼をした。
セラフィーナは、鏡の中の自分を見つめたまま瞬きをする。
「あれ……もう?」
以前の朝は、もっと賑やかで、もっと騒がしかったはずだ。
侍女たちは皆、競うようにして彼女の世話を焼こうとした。
『私が髪を』
『こちらはお任せください』
そんな声が絶え間なく飛び交い、部屋の中はいつも華やかな祭りの準備のような熱気に包まれていた。
けれど、今は違う。
侍女たちは淡々と、それぞれの仕事を完璧に分担し、驚くほど短い時間で支度を終えてしまった。
「ありがとうございます」
セラフィーナが礼を述べると、侍女たちは穏やかに微笑んだ。
「お役に立てて光栄です、聖女様」
慇懃に、けれど深入りしない距離感を保ったまま、彼女たちは部屋を下がっていく。
決して冷たいわけではない。
むしろ、以前より洗練された優しさだった。
けれど。
扉が閉まったあと、セラフィーナは鏡の前で少しだけ首を傾げた。
(……あれ?)
なんだか、前と違う。
けれど、何が違うのか。
どうして以前のような「特別」な空気がないのか。その正体は分からない。
気のせいかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、彼女は朝の祈りを捧げるべく神殿へと向かった。
神殿の大扉をくぐると、高い天井から差し込む彩色ガラスの光が、白い石床に美しい模様を描いていた。
その中央で、神官長が静かに立っている。
「おはようございます、聖女様」
穏やかな声とともに頭を下げる。セラフィーナも微笑みを返した。
「おはようございます」
ふと、周囲を見回す。
以前は、ここには数えきれないほどの神官が集まっていたはずだ。
聖女の祈りを見守り、一言でも祝福を授かろうと、皆が敬虔な――あるいは熱狂的な目で見つめていた。
だが今日の神殿は、ひどく静かだった。
神官たちはそれぞれの務めに没頭しており、遠くで書物を整理する音や、祭具を整える乾いた音だけが響いている。
誰も騒がない。誰も駆け寄ってこない。
すれ違う神官たちは、一様に足を止めて丁寧に頭を下げる。
「聖女様」
敬意は、間違いなくそこにある。
祈りは、静寂の中で始まった。
広い神殿に、セラフィーナの澄んだ声だけが吸い込まれていく。
祈りを終えると、神官長が再び深く礼をした。
「今日もありがとうございました」
それだけだった。
かつてのような感嘆の溜息も、歓喜の震えもない。
不敬ではない。ただ、神殿が神殿として「正常」に機能しているだけのこと。
それがセラフィーナにはとても不思議なことのように映った。
その足で、セラフィーナは訓練場へと向かった。
騎士たちの朝稽古を見るのが、彼女は好きだった。
以前は、彼女が姿を見せるだけで場内は騒然となった。
『聖女様だ!』
『おはようございます!』
『今日もお美しい!』
騎士たちは稽古を投げ出して集まり、訓練場はまるで彼女を歓迎する舞台のようになった。
だが、今日の訓練場は違った。
鋭く剣がぶつかる音。腹の底に響く掛け声。土を強く踏みしめる音。
騎士たちは一心不乱に、己の技を磨いている。
セラフィーナに気づいた一人が、剣を下ろして軽く礼をした。
「おはようございます、聖女様」
周囲の騎士たちも、気づいた者から順に頭を下げ、敬意を示す。
だが、誰一人として稽古を止めない。すぐに剣を構え直し、火花を散らす打ち合いに戻っていく。
「……」
セラフィーナは入口に立ち尽くし、しばらくその光景を見つめていた。
騎士たちは真剣だった。訓練場は、本来あるべき姿で正しく機能している。
それは、素晴らしいことなのだろう。
それでも。
「……おかしいな」
セラフィーナは、ぽつりと呟いた。
以前と同じ場所。同じ人々。
なのに。
世界の「熱」だけが、以前の記憶よりもほんの少し、冷めている気がした。
セラフィーナはその理由を知らない。
リリアが消えた瞬間に弾けた光が、彼らの目から「熱狂」という名の目隠しを剥ぎ取ったのだということを、彼女だけがまだ気づかずにいた。




