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50 苦味

昼下がり。王城の書庫にて。

高い天井まで伸びる本棚。積み上げられた古い文献。微かに漂う古紙とインクの匂い。

その中央で、皇帝ジークヴァルドは音もなく書物をめくっていた。

調べているのは、過去の聖女関する記録。ここ最近、皇帝が頻繁に書庫へ足を運ぶようになった理由でもあった。


そこから少し離れた壁際に、カイルは立っていた。

護衛としての任務。いつも通りの配置。いつも通りの警戒。


ーーのはずだった。


だが、カイルの視線は主君の背中ではなく、机の向こう側へと向いていた。


そこは以前、リリアが座っていた場所だ。


地図を広げ、文献の山に埋もれるようにして、必死に文字を追っていた席。

今は主を失い、ただの空席としてそこにある。


なのに、カイルの視線はどうしてもその空白に吸い寄せられてしまう。


「また見てるな」

背後から投げかけられた低い声に、カイルは微かに肩を揺らした。


振り返ると、巡回中らしいゲルハルトが棚にもたれかかっている。

「何がだ」

カイルは努めて平然と応じたが、ゲルハルトは鼻で笑った。

「そこだよ。そこ」

顎で示された先は、やはりリリアのいた場所だった。


「……別に。気のせいだ」

「はいはい」

ゲルハルトは肩をすくめ、自嘲気味に口角を上げた。

「気持ちは分かるけどな」

その言葉に、カイルの眉が鋭く動く。

「何の話だ」


「お前、あいつがいなくなってから、ずっとひでえ顔してるぞ」

カイルは答えず、拒絶するように視線を逸らした。


だが、数秒後には吸い込まれるように、また同じ空白を見ていた。

「ほらな」

「違う。……任務中だ」

「任務中に、主のいない空席を睨みつける必要があるのか?」


「……」

返答はなかった。ゲルハルトは軽く息を吐き、壁から身を離す。


「まあいいさ。俺も似たようなもんだからな」

ぼそりと吐き捨て、彼は去っていった。


再び、書庫に沈黙が戻る。


カイルは改めて、室内を見渡した。

机、椅子、古地図、積まれた文献。

すべてが以前と同じ光景なのに、そこにいるべき人物だけが欠けている。


ふと、記憶がよぎった。


『カイルさん、いつも護衛ありがとうございます』


そう言って、臆面もなく笑った顔。


『……終わりました』


浄化を終え、振り返った時の、苦しみを微塵も見せない穏やかな微笑み。


胸の奥を、鋭い刃で抉られたような痛みが走った。

戦場での負傷ではない。

目に見える傷があるわけでもない。


それなのに、呼吸が浅くなり、鼓動が不規則に跳ねる。

カイルは無意識に胸元を強く掴んだ。


(……なんだ、これは)

分からない。

長年剣を振るってきたが、こんな感覚は一度も教わらなかった。

敵意でも、警戒でも、単純な怒りでもない。


視線が、再び空席へ戻る。



もし。


もし、今。

あの席にリリアが戻ってきたら。


地図を広げて眉を寄せ、不意に鳴った腹の音を慌てて誤魔化して。


そして、自分を見て。


『カイルさん』


そう呼んで笑いかけてきたら。


自分は、一体どうするつもりなのだろう。


想像した瞬間、胸の奥が、千切れるほど強く締めつけられた。

カイルは長く、ゆっくりと息を吐き出した。

「……分からない」


誰にも聞こえない、掠れた呟き。

「これは……何なんだ」

書庫の中央には、ただ静かな空席があるだけだった。


だがカイルの視線は、いつまでもそこから離れることができなかった。

そこに、もう戻らないはずの女性を探すように。

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