49 オーダーミス
王城の執務室は、いつもと変わらぬ静けさに満ちていた。
重厚な机の上には、山のように積み上がった書類が整然と並んでいる。
各地から届く政情報告、税収の記録、軍の配置、神殿からの要請。
ジークヴァルドはその一枚一枚に鋭い目を通し、迷いなく決裁の印を押していく。
その手元は、驚くほど安定していた。
「北方街道の補修費用ですが、予算を増額する必要があります」
側近の一人が、推移を見守りながら控えめに進言する。
「許可しよう。物流が滞れば、冬に民が飢えることになる」
「次。東部穀倉地帯の収穫量の報告です」
「ふむ……想定より一割多いな。余剰分の管理を徹底させ、備蓄庫の拡張を急がせろ」
判断は迅速で、常に的確。皇帝としての機能は、何一つ滞ることなく、完璧に作動していた。
だが。
『――聖女の浄化により、北東山間部の土地も回復傾向』
報告書の中に現れたその一文に、ほんの一瞬だけ、走らせていた視線が止まった。
ジークヴァルドは表情を変えず、すぐに次頁を捲る。
「結構なことだ」
短く答えた声に、揺らぎはない。
「ですが……」
報告役の男が、わずかに言葉を濁した。
「どうした」
「いえ。その……今回の浄化を受け、民の間に少し……『前の聖女様は、今いずこにおられるのか』と、案ずる声が上がっておりまして」
室内の空気が、凍りつくように張り詰める。
誰もが、その問いが孕む危うさを理解していた。
しかし、ジークヴァルドの眉一つ動かない。
「帝国は新たな聖女を得た。それで十分だろう」
事務的な響きさえ伴う断言。書類に視線を戻した皇帝に、反論の余地など残されていなかった。
皇帝の言葉は、常に帝国の「結論」なのだから。
また別の書類が差し出される。
「神殿からの献上品、その目録です」
「……置いておけ」
指先はやはり迷いなく動く。
誰の目から見ても、彼は非の打ち所がない理想の君主だった。
しかし。
白紙の上の文字が、陽光の加減か、ほんの一瞬だけ滲んだ。
(――泥だらけで、それでも満足そうに笑っていた顔)
ふいに、御しきれない記憶が脳裏を掠める。
書庫の隅、机に顔を埋めるようにして古びた文献を読み漁っていた、小さな背中。
『もし瘴気の法則が分かれば、少しでも皆さんの役に立てるかもしれないので』
あの掠れた声。あの、健気な献身。
ジークヴァルドは、そっと目を閉じた。
(……私は)
沸き上がろうとする思考を、鉄の意志で切り捨てる。皇帝に、不要な感傷など許されない。
「次の案件は?」
声は、やはり静かだった。
その時だ。
開いていた窓から、冷たい風が室内へ滑り込んできた。
春とはいえ、山嶺から吹き降ろす風はまだ鋭い。机上の書類が、羽ばたくようにかすかに揺れる。
「申し訳ありません、陛下。少し冷えますね」
側近が慌てて窓を閉めに向かい、パチンと鍵を掛けた。
だが、ジークヴァルドは何も答えなかった。
ふとした違和感が、胸に刺さっていた。
(……寒くない)
かつては、時折、得体の知れない悪寒に襲われていた。
背筋を逆撫でするような、氷の指に触れられたような冷たい感覚。
理由もなく体温が奪われる、あの忌々しい感覚。
季節のせいか、あるいは過重な疲労のせいかと思っていた。
だが、今はない。完全に、消え失せている。
(……体調が戻った、ということか)
そう結論づけるには、あまりに唐突な消失だった。
あの寒気は、いつも突然現れていた。
そして今、いつの間にか消えていた。
ジークヴァルドは、思考を止めた。
もはや意味のない考察だ。皇帝に必要なのは、過去の分析ではない。未来への決断だ。
彼は再び書類に目を落とした。




