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48 検食

王城北棟、宰相の書庫。


深夜の廊下は昼間とは別の顔を見せ、人の気配は絶え、燭台の灯りだけが石壁に長い影を落としている。

その奥で、紙を捲る乾いた音だけが執拗に続いていた。


イーサンは机に向かい、分厚い文献を読み耽っていた。

机上に積まれているのは、聖女に関する古今東西の記録だ。

帝国史、神殿の秘匿文書、各国の宗教記録、古い巡礼記。それらすべてを、彼は最初から読み直していた。


ふと、ページを捲る指が止まる。


『――瘴気の浄化は、聖女の身体に負担を与える可能性がある』


淡々と書かれた一文。あまりにも小さく、あまりにも曖昧な記述。

イーサンはその行を、穴が開くほど見つめていた。


「……可能性、ですか」

静かに呟いた唇の端が、かすかに歪む。


机の傍らには、すでに十数冊の本が積み上がっていた。

どれも記述は似通っている。


「負担の可能性」

「霊的疲労」

「神の加護による保護」


どれも具体性を欠いた、空虚な言葉の羅列だ。


だが――イーサンの脳裏では、それらとは正反対の、あまりに生々しい光景が繰り返されていた。


瘴気を溜め込んだ、あの少女の姿。

墨を流したように黒く染まった腕。光を失い、濁りきった瞳。


「……」

イーサンは眼鏡を外し、眉間を強く指で押さえた。胃の奥を、熱い針で刺されるような痛みが走る。


「……私は、一体何を見ていたのでしょうね」

低く、乾いた声が漏れる。

参謀として、国家の頭脳として、あらゆる事象を分析し最善を導く役割を担う男。


その男が、一人の少女がその身を削り、崩壊していく事実に――気づかなかった。


いや、気づかなかったのではない。

(……気づいていたはずだ)

イーサンは静かに目を閉じた。


浄化の遠征から帰るたび、リリアの顔色は悪くなっていた。歩き方がふらついていたこともある。

それでも彼は、それを「聖女の負担」という既知の概念として処理した。そういうものだと定義し、思考の枠外へ放り出したのだ。


乾いた音を立てて文献を閉じる。その響きが、無人の書庫に虚しく反響した。


「……非効率です」

参謀らしい言葉だった。

だが、その声は微かに震えている。


「国家の重要戦力を、あのような形で運用するなど。……あまりに愚かだ」


誰に向けた言葉でもない。ただ、事実を整理するように自分に言い聞かせる。


聖女は、帝国唯一の瘴気対抗手段。即ち、国家にとっての最重要資産だ。

それをまともな医療も、身体検査も、負担の分析もなく、ただ現場へ送り続けた。


(分析を放棄したのは、他ならぬこの私だ)


イーサンの指先が、机の上で止まる。


視線が机の端、今日の昼から放置されている小さな紙袋へ移った。

中には、一切れの白パンが入っている。あの日、書斎で彼女に渡したものと同じパン。


『余り物です。捨てる手間が省ける』


あの時の自分の言葉を思い出し、イーサンは自嘲気味に息を吐いた。


「……本当に。救いようのない嘘をつく男だ」

彼はパンを手に取った。冷え、固くなり始めたその感触。


 書庫の静寂の中に、独白が落ちる。

「教育係として、最低限の礼儀くらい覚えてもらわないと困ると……」


燭台の火が、かすかに揺れる。

やがてイーサンは、力なく椅子にもたれ、天井を見上げた。


「……困っていますよ、リリア。あなたがいなくなって」


まだ教えることが、山ほどあったというのに。


それは、参謀の仮面を剥ぎ取られた、一人の男の掠れた声だった。


机の上には、まだ山のように文献が積まれている。

だが、古今東西のどの記録を紐解いても。

「聖女返還後」についての記述は、どこにも存在しなかった。

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