47 冷めたご飯
遠征の終盤、山間の谷に満ちていた瘴気が、静かに霧散していった。
濁った空気がほどけるように薄れ、腐臭に満ちていた風が、やがて山の冷たい匂いへと変わる
。灰色に沈んでいた草木が、わずかに色を取り戻し始めた。
「終わりましたっ」
セラフィーナが、穏やかな声で告げた。
淡い光を纏っていた聖衣の裾が、ふわりと風に揺れる。まるで祝福でも降り注いでいるかのような光景だった。
兵士たちがほっとしたように息をつく。小さな称賛が、あちこちから漏れた。以前のような熱狂的な歓声ではないが、そこには確かに聖女への敬意がこもっている。
その中で、ゲルハルトだけが、ケッと小さく舌打ちした。
視線を逸らし、瘴気のあった場所を睨みつける。
そこには、まるで初めから何も存在していなかったかのように、清潔な静寂だけが広がっていた。
セラフィーナは周囲を見回し、ふと足元に咲く小さな花を見つけた。
「あ……見てください。こんなところに花が。こんな瘴気の中でも、ちゃんと咲くんですね」
しゃがみ込み、嬉しそうに笑う無邪気な姿。
その様子を見つめるゲルハルトの脳裏に、別の少女の影が重なった。
(……いや、違う。あいつは、花なんか見ねえ)
彼の知っている聖女が、この世界の中で唯一、目を輝かせる瞬間を知っている。
『これ、食べられるんですよ!』
そう言って、泥だらけの手で野草を掴んでいた顔。
ゲルハルトは思わず、奥歯を噛み締めた。
「あ……泥が」
セラフィーナが立ち上がり、聖衣の裾を気にしながら困ったように笑った。「帰ったら洗わないと」
ゲルハルトは、それを鼻で笑い飛ばした。
(泥だと?)
笑わせるな、と思った。
リリアは、そんなもの気にしたことさえなかった。
浄化の現場から戻るたび、靴も裾も真っ黒に汚れ、力を使って疲れているだろうに、それでも平気な顔でこう言ったのだ。
『お腹すきました。今日のご飯、なんですか?』
胸の奥が、妙にざらついた。
「浄化、完了しました」
振り返ったセラフィーナの顔は、あまりにも綺麗だった。
透き通るような肌。
整った聖女の姿。
その清廉さを見た瞬間、ゲルハルトの脳裏に、最後に見たリリアの顔が焼き付くように浮かんだ。
――黒かった。
瘴気が顔の半分を侵し、白目さえも濁らせていたあの色。
あんな悍ましいものを、かつて生きていた掃き溜めのような場所でも、戦場でも見たことがなかった。
(……痛かったんじゃねえか、本当は)
ふと、そんな考えが胸を過る。
瘴気をその身に溜め込むたび、リリアの体は内側から焼かれ、黒く染まっていったはず。
(苦しかったんじゃねえか。助けてくれ、って……言いたかったんじゃねえのか)
――いや。言うわけねえな。
ゲルハルトは、重苦しく息を吐いた。
リリアはスラムで育ったのだ。助けを求めた瞬間、その隙を突かれ、足元を掬われる場所で。
――だから、あいつは絶対に「助けて」なんて言わない。
(気づいてやれたのは……同じクソみてえな世界の中で生きた俺くらいだったかもしれねえのに)
「ゲルハルトさん?」
セラフィーナの訝しげな声に、ゲルハルトは無理やり意識を現実に引き戻した。
いつもの「気の良い騎士団長」の面を被り、強引に言葉を吐き捨てる。
「よし。終わったんなら、さっさと帰るぞ」
「……はい」
セラフィーナは少し戸惑ったように頷いた。
帰城後、皇帝の執務室での報告は簡潔に終わった。
「北東山間部の瘴気、浄化完了しました」
セラフィーナの言葉に、ジークヴァルドは静かに頷く。
「ご苦労だった。民も安心するだろう」
その顔を見た瞬間、ゲルハルトの胸の奥で、どす黒い怒りが激しく渦巻いた。
(ふざけんな。都合よく使い潰して、用が済んだら捨てやがって)
気まぐれに温かい寝床と食事を与え、最後にはすべてを取り上げた。
(あれは、人間のやることじゃねえ。……悪魔の所業だ)
だが、怒りと同時に、凄まじい吐き気が込み上げた。
(――俺もだ。俺も、同じことをしたんだ)
あいつを見た。
瘴気に侵された、あの黒い体を。
化け物じみた肌を。
そして、俺はあいつを嫌悪した。
魔物を見るような目で。
皇帝を、悪魔だと責められる資格なんて、俺のどこにある。
その日の夕食。
騎士団の食堂で、ゲルハルトは一人、席についていた。
皿の上には、肉とパン。いつもと変わらない、騎士団の飯。
フォークを手に取るが、その先を口に運ぶことができない。
皿を見つめる。
ふと、思い出す。
書庫で『帝国料理大全』を広げ、目を輝かせていた少女を。
ゲルハルトは、カランと音を立ててフォークを置いた。
「……ごめんな」
誰にも届かないほど小さな、掠れた声。
冷えていく皿から視線を逸らせないまま、彼は独り、懺悔を零した。
「飯は逃げねえって……俺が言ったのによ」




