46 後味
「ぐすっ……。リリアさん……」
セラフィーナは、指先でポロポロと溢れる涙を拭いながら呟いた。
その時、ドサッ、と重い音が響いた。
セラフィーナが音の方へ目を向けると、皇帝ジークヴァルドが床に膝をついていた。陣の中央を凝視するその顔は、幽霊のように蒼白だ。
皇帝の椅子の横に立っていたイーサンもまた、目を見開いたまま固まっている。その端正な顔から、音を立てるように血の気が引いていく。
「ど、どうしたんですか……?」
セラフィーナが慌てて二人に声をかける。
しかし、イーサンは答えなかった。
ただ、陣の中央――リリアが消えた場所を、何か恐ろしい答えに辿り着いてしまったかのように見つめている。
「…………んだよ、これ……っ」
ゲルハルトがワナワナと拳を握りしめていた。その形相は、まるで地獄の悪鬼だ。
セラフィーナはオロオロとカイルを見上げる。
「ど、どうしちゃったんでしょう……」
カイルの呼吸は、全力疾走を続けたかのように乱れていた。はっ、はっ、と短い喘ぎを繰り返し、全身が小刻みに震えている。
「……カイルさん?」
恐る恐る呼びかけるが、返事はない。
カイルもまた、誰もいなくなったその場所を、食い入るように見つめ続けている。
やがて、「……っ」と喉の奥から押し潰されたような声が漏れた。
「……なぜ」
拳が白くなるほど握り込まれる。
「……なぜ、俺は……あいつを……」
そこで言葉が途切れた。
顔が歪む。
自分自身の記憶という凶器に、正面から殴りつけられたかのような顔だ。
「……リリアを」
カイルがその名を絞り出した瞬間、ゲルハルトが割れるような頭痛に襲われたように頭を押さえて呻いた。
「……っ、ぐ……!」
脳裏に、濁流のように光景が蘇る。
瘴気の中に一人で立ち、腕を焼かれ、それでも自分を気遣って笑っていた少女。
『兄貴みたいですね』
そう言って照れくさそうに笑った、あの無垢な顔を。
自分は、どんな眼差しで射抜いた? どんな言葉で切り刻んだ?
「……俺が……俺が、あんな目で、あいつを見たのかよ……!!」
ゲルハルトの拳が、床に叩きつけられた。ドンッ! という鈍い音が神殿に虚しく響く。
皇帝ジークヴァルドは、膝をついたまま動けずにいた。唇が戦慄に震える。
「……リリア」
その声は、消え入りそうなほど小さかった。
だが次の瞬間、彼は突然、自分の胸を掻きむしるように掴んだ。
「……っ!」
呼吸が浅くなる。胸の奥に深く突き刺さっていた棘が、一気に引き抜かれたような衝撃。
頭の奥で、欺瞞の殻が弾ける。
――思い出した。
書庫で必死に本を読んでいた、あの小さな背中。
泥だらけで帰還し、役目を果たしたと誇らしげに笑った顔。
寒い夜、震える手で自分にひざ掛けを差し出してくれた、あの温もり。
それを、自分は。
「……返還、させた……? 」
「私が?」
ジークヴァルドは自分の震える両手をしばらく見つめ、そして顔を覆った。
その横で、イーサンは、亡霊のように立ったままだった。
そして――ぽつりと、誰にも聞き取れないほど小さな声で呟いた。
「……靴を。履きなさい、と。……あんなに、言ったのに……」
イーサンの脳裏に、先ほどまで魔法陣の中央に座っていたリリアの姿がよぎる。
聖衣の裾から覗いていた、細い足首。
冷たい石床の上に、むき出しのまま置かれていた小さな足。
薬を塗り、包帯を巻いてやったあの傷だらけの足を。
自分は、何ひとつ守れなかった。
裸足のまま――
彼女を、この世界から放り出したのだ。
イーサンの拳が、激しく震えた。
異変は、波紋のように神殿全体へ広がっていく。
「……え?」
「なに、これ……」
「……俺、なんで……」
一人の神官がふらりと膝をつき、兵士が両手で顔を覆う。
誰かが震える声で、その名を呼んだ。
「……聖女様。……リリア様……」
感染するように、その名が広がる。
まるで長い悪夢から覚めた人間が、現実を確認するように。
人々の顔から、熱に浮かされたような恍惚が消えていく。
代わりに浮かび上がったのは、取り返しのつかない罪を犯してしまったという、底なしの恐怖。
「……俺たち……聖女様を……追い出した……?」
神殿を支配していた狂信的な熱は、もうどこにもない。
誰も、歓声を上げない。
誰も、奇跡の体現者であるはずのセラフィーナを見ようともしない。
ただ――主を失った魔法陣の中央を、呆然と、絶望を湛えて見つめている。
神殿は、凍りついたような沈黙に包まれた。
ただ一人。
何も理解できていないセラフィーナだけが、血の気の引いた男たちの中心で、置き去りにされたように立ち尽くしていた。




