44 最後の晩餐
その夜、リリアは眠れなかった。
暖炉の火は燃え尽き、灰の中に赤く燻る光を残すのみ。
部屋の空気は、石造りの壁から伝わる夜の冷気にゆっくりと侵食されていく。
右腕の拍動するような痛みも、胸の奥に澱のように溜まった瘴気の重苦しさも、もう身体の一部のように馴染んでしまったはずだった。
それなのに、瞼を閉じても意識は冴え渡り、闇の中にスラムの路地裏のような寒々しい景色が浮かぶ。
(……おなか、すいた)
小さく吐息を漏らし、リリアはシーツを跳ね除けて起き上がった。
ぐう、と情けない音が静寂に響く。
瘴気を浄化した日は、いつもひどい飢餓感に襲われる。
だが今夜の空腹は、それだけではなかった。
明後日には、この城を出る。儀式を経て、すべての記憶は消える。
ここで知った、柔らかな寝床の感触も。
自分を「聖女様」と呼んだ誰かの声も。
鼻をくすぐる暖かいスープの匂いや、舌の上でとろける肉の味も。
全部、泡のように消えてなくなる。
(やっぱり……もったいないな。せっかく、覚えたのに)
ぽつりと独り言を溢し、リリアは立ち上がった。
黒く強張って動かしにくくなった右腕を、無理やり外套の袖に通す。
音を立てないように扉を開け、夜の静寂に沈む王城へと足を踏み出した。
昼間はあんなに喧騒に満ちていた廊下も、夜になれば死者の国のように静まり返っている。
リリアは壁を這う影のように、慣れた足取りで厨房へと向かった。
それはスラムにいた頃、飢えに耐えかねて商店の裏口を漁っていた時と同じ、泥棒のような足取り。
帝国を救った聖女の成れの果てが、夜中に残飯を探して彷徨う。
その滑稽さに、自嘲の笑みが零れた。
厨房の重い扉は、幸いにも僅かに隙間が開いていた。
中はしんと静まり返り、大きな調理台の上には片付け忘れた銀皿がいくつか放置されている。
(……あ、あった)
大きな鍋の底に、まだ少しだけスープが残っているのを見つけた。
リリアは、咎める者など誰もいない室内へ、吸い込まれるように入り込む。
明後日には、私は「魔物」としてこの国から消されるのだ。
今さらスープの一杯を盗んだところで、誰が文句を言うだろう。
棚を漁ると、昼の残りらしい固くなりかけたパンが一つ。
皿の隅に残された、冷えて脂の固まった肉の切れ端。
そして、野菜の甘みが溶け出した、温いスープ。
リリアは調理台の端の椅子に腰掛け、祈るようにパンを手に取った。
ぱき、と乾いた音が耳に心地よく響く。
少し硬い。けれど、スラムで齧った石のようなパンに比べれば、これは天上のご馳走だ。
「いただきます……」
誰にも届かないほど小さな声で呟き、パンをかじる。
噛みしめるたびに、小麦の素朴な味が口いっぱいに広がり、胸の奥の凍てついた場所が、じんわりと解けていくのがわかった。
スープを啜れば、冷えていてもなお野菜の滋味が喉を通り、空っぽだった胃袋を優しく満たしていく。
「……おいしい」
これは、皇帝が供する豪華な晩餐ではない。
けれど、冷えた銀皿の上の残り物は、今のリリアにとって、どんな奇跡よりも確かな「生」の証だった。
ここでは、誰も自分を「魔物」と怯えない。
誰も、自分の黒い肌を嫌悪の目で見ない。
ただ、静かな暗闇の中で、一人の女の子として、空腹を満たしている。
パンをちぎり、肉を一口。
スープを最後の一滴まで啜り終える頃、リリアの胃袋は心地よい重みを感じていた。
(……ああ。久しぶりに、おなかいっぱいだ)
それが、何よりも誇らしく、嬉しかった。
食べ終えた皿と鍋の底を、指先で綺麗に拭う。
誰もいない厨房に、彼女は深く、丁寧に頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
椅子から立ち上がり、外套についたパンくずを払う。
ふと、リリアの唇から、小さな、本当に小さな独り言が漏れた。
「……よかった。明日も、食べられる」
明日までは、この城にいられる。
明後日になれば、すべてを忘れ、再び泥水を啜る日々が始まるのだろう。
けれど、せめてあと一日だけ。
自分を「魔物」とも「聖女」とも思わない、ただの腹を空かせた一人の人間として、この暖かい味を噛みしめていたい。
厨房の扉を閉め、暗い廊下を歩き出すリリアの足取りは、先ほどよりも微かに軽かった。
お腹が満たされたからか、あるいは、すべてが終わると決めたからか。
「……明日も、食べよう」
それくらいは、神様だって許してくれるはずだ。
世界を救うために毒を喰らい続けた女の、それが最後で唯一の我儘なのだから。




