43 かつての空腹へ
その夜。リリアの自室の扉を叩く音が、静まり返った夜気に冷たく響いた。
この部屋の主が「魔物」と蔑まれるようになって久しい。訪ねてくる者など、もう絶えていたはずだった。
リリアは、すぐには扉を開けなかった。
手袋越しに、黒く強張った自分の腕をさすり、おそるおそる声をかける。
「……はい、どなたですか?」
「私だ」
聞き間違えるはずのない、重厚な、けれどどこか掠れた声。
ジークヴァルドだった。
扉を開けると、そこにはかつての威風堂々とした姿が嘘のように、顔色の悪い皇帝が立っていた。
リリアが無意識にその背後、彼を守るべき騎士たちの影を探すと、ジークヴァルドは力なく、自嘲気味に笑った。
「個人的な訪問だ。……私だけだよ」
リリアは戸惑いながらも、彼を室内へと招き入れた。
ソファに腰を下ろしたジークヴァルドが、寒さに耐えるように己の腕を強くさすっているのに気づき、リリアは慌ててひざ掛けを差し出した。
「どうぞ。……少し、寒いですよね。今、火を強くしますから」
「ああ……すまない。助かるよ」
リリアの指先は黒く、動かしにくい。
それでも甲斐甲斐しく動く彼女を、ジークヴァルドは濁った瞳で見つめていた。
部屋の中に、重苦しい沈黙が落ちる。
パチパチと爆ぜる暖炉の音だけが、二人の間の距離を埋めていた。
長い時間の後、ようやく皇帝は、喉の奥から絞り出すように重い口を開いた。
「……城内外で、君を『返還』すべきという声が上がっている。日増しに、無視できないほどに強まっている」
――やっぱり。
リリアは、心のどこかで平然とその言葉を受け止めていた。
華やかな奇跡を起こせるわけでもなく、人々に愛される美貌があるわけでもない。今の自分は、顔の半分を黒い泥のような瘴気に染められた、見るも無残な「なり損ない」だ。
「ですよね……」
リリアは頭をかきながら、力なく笑った。
その、いつものように控えめで、自分を卑下する仕草。それを見た瞬間、ジークヴァルドは何事かを堪えるように、血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
そして――
帝国の頂点に立つ男が、椅子に座ったまま、ゆっくりと深く頭を下げた。
「……すまない。私には、彼らを止めることができない」
頭を上げてください、と言いたかった。
けれど、今のリリアには、困ったように微笑み返すことしかできなかった。
彼を責める気持ちなど、微塵もない。
こうなったのは、自分が瘴気を喰らいすぎたせいだ。
それに――
この城を包むあの「熱」のせいなのだから。
「返還は……いつですか?」
「……最短で、明後日の正午…」
「わかりました。準備しておきますね」
短すぎるやり取り。
ジークヴァルドはしばらく動かなかったが、やがて幽霊のようにふらりと立ち上がった。
「……体を、大事にするんだよ。リリア」
それだけを残して、皇帝は部屋を出ていった。
ひざ掛けを返し、寒そうに腕を擦りながら、灯りの乏しい廊下へと消えていく背中。
その孤独な姿を見送ってから、リリアは小さく、長く息を吐いた。
「……ふふ、あはは……」
誰もいなくなった部屋で、自嘲の笑いが漏れる。
返還の儀式を経て元の世界へ戻れば、この異世界での記憶はすべて消えるという。
それなら――好都合だ。
スラムの路地裏で、明日をも知れぬ命を繋いでいくのに、帝国での記憶など邪魔なだけだ。
ふかふかのベッドや、銀の食器に盛られた、あんなに美味しいご馳走の数々。
あんな贅沢な思い出を抱えたまま戻ったら、きっとまた、すぐにひどくお腹が空いてしまう。
「忘れてしまった方が、ずっと楽だよね」
黒く濁った左目で、リリアは窓の外の暗闇を見つめた。
どうせまた、汚泥にまみれ、泥水を啜って生きていくのだ。
聖女と呼ばれた夢なんて、最初からなかったことにすればいい。
(……おなかが、すいたなぁ)
リリアは、痛む腕を抱きしめ、静かに目を閉じた。
最後の日まで、彼女を苛むのは、消えることのない飢餓感と、もう二度と届かないはずの、誰かの温もりだった。




