42 ゲテモノ
王城の書庫。
かつては知の宝庫であり、リリアにとって唯一心が休まる場所だった。
けれど今は違う。
そこは静かで、誰も近づかない。
ただ本だけが積み上がる、冷たい「檻」だった。
カサリ、と重苦しい音が響く。
ページを捲るリリアの右腕は、もはや人間の肌の色を失っていた。黒く焦げた煤のような変色は、肘を越え、肩を越え、今や鎖のように彼女の白い首筋へと絡みついている。
さらに、その浸食は顔の半分にまで達していた。
左側の視界は常にどろりと濁り、白目さえも黒く染まっている。
その姿は、聖女と呼ぶにはあまりに悍ましく、深淵から這い出た「魔物」そのものだった。
「…く…っ」
黒い指先が固まってうまく動かない。
リリアは残された右目の焦点を必死に合わせ、古い文献の文字を追った。
最近では、廊下を歩くことさえままならない。
かつて兄のように慕っていたゲルハルトは、彼女とすれ違うたびに露骨に顔を歪め、舌打ちを隠そうともしなかった。
教育係だったイーサンは、今やリリアが何を問いかけても、壁に話しかけているかのように一瞥もくれない。
そして、カイル。
あの日、セラフィーナが怪我を追った浄化の日以来、一度もその姿を見ていない。
彼はもう、リリアの存在を記憶から消し去ってしまったかのようだった。
廊下の陰で、使用人が口元を覆いながら囁く声。
扉の向こうで、騎士が吐き捨てるように言う声。
棘のような言葉が飛んでくる。
「あの魔物をいつまで置いておくつもりだ」
「セラフィーナ様がいるのに、なぜあんな不浄なものを……」
「即刻、返還(処分)すべきだ」
リリアはそれらの声を、石を投げられるように黙って受け止めてきた。
そんな彼女が、震える指を止めた一節。
『――聖女が召喚される時、世界より聖なる力が与えられ。返還される時、その力は再び世界へと還る』
リリアの脳裏に、あの日――セラフィーナが降臨した瞬間の記憶が蘇った。
あの時、自分の身体を蝕んでいた瘴気が、ほんのわずかに、けれど確かに薄らいだ。
世界と聖女の間で巨大な力が循環する、その瞬間。
(……もし。その時に、浄化と同じ作用が働くのだとしたら)
リリアは、自らの黒く染まった胸元を強く押さえた。
今、この城を狂わせている「熱」。
セラフィーナが現れてから、人々の心を書き換えてしまったあの「魅了」。
もしリリアがこの世界から消え、「聖なる力」を返還したならば。
その奔流が、城を覆う偽りの夢を、一気に洗い流してくれるのではないか。
「……魅了も、消せる?」
小さく溢れた声は、掠れて震えていた。
確信はない。それに、リリアのような「なり損ない」の聖女が持つ力が、セラフィーナの強大な光に抗える保証などどこにもない。
けれど。
(おなか、すいた……)
内側の「魔物」が、再び空腹を訴えて鳴く。
もう限界だった。
リリアの肉体は、これ以上の瘴気に耐えられない。
彼女が魔物としてこの国に討たれるか、あるいは――自ら「返還」を選び、この歪んだ熱狂に終止符を打つか。
「……それで、皆が正気に戻るなら」
片目しか見えない視界の端で、窓の外から楽しげな笑い声が聞こえた。
セラフィーナを囲み、跪き、魂を捧げるかつての仲間たち。
彼らはリリアを「魔物」と呼び、排除を望んでいる。
リリアは、静かに本を閉じた。
その横顔の半分は黒く、もう半分は、スラムの中でも失わなかった透明な覚悟に満ちていた。
誰もいなくなった書庫で、リリアは決意する。
自分を使い潰し、蔑み、魔物と呼んだこの国への、それが最後で最大の「浄化」になるのだと信じて。




