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41 1人の食卓

王城の廊下に響く足音は、かつてリリアに向けられていたものとは明らかに異質な熱を帯びていた。

通り過ぎる騎士たちの囁き声。それは報告でも連絡でもなく、どこか陶酔を孕んだ「祈り」に近い。


「本物の聖女様だ」

「奇跡だ」


リリアは、書庫の扉の陰で、石のように本を見つめたまま動かなかった。


以前も、聖女として敬われてはいた。

けれど、それは土にまみれた戦友に対する信頼のような、血の通った敬意だったはずだ。

今の城を支配しているのは、誰もが同じ甘い夢にうなされているような、底の知れない熱狂。


その熱狂から、リリアだけが、静かに、そして確実に指先から零れ落ちていく。


数日後。執務室で下された判断は、もはや驚きですらなかった。

「リリアは同行する必要はありません。セラフィーナに任せる」

補佐官イーサンの声に、かつての気遣いは微塵もない。

リリアはただ小さく頷き、自分の役割が「予備」ですらなくなったことを悟った。


そして、城内の浄化任務は、音もなく二つに分かたれた。

光り輝くセラフィーナが、喝采と共に赴く「華やかな儀式」。


そして――。

「リリア様、頼みました」

数日後の、小さな瘴気の浄化。

かつてなら十数名の騎士が、鋼の壁となってリリアを死守していたはずの場所。

だが、そこに立つのは、退屈そうに空を眺めるわずか四人の護衛だけだった。


「このくらいなら、問題ないでしょう」

リリアは何も言い返さず、黒い霧に手を伸ばした。


瘴気が皮膚を焼き、肺の内側をギチギチと軋ませる。

焼けるような激痛。

浄化が終わっても、そこにあるのは安堵の歓声ではなく、「ご苦労様」という、事務的な一言だけだった。


さらに数日が経ち、護衛は二人になった。

一人は、遠くの空を見上げて「セラフィーナ様の浄化が始まったらしい」と、上の空で呟く。

骨の奥まで走る熱い痛みの中で、リリアは微笑むことしかできなかった。


(……おなか、すいた)

痛みの裏側で、不意に揺らめく「飢え」の感覚。

浄化を終えて振り返ったとき、そこにはもう、一人の騎士しか残っていなかった。


そして。


今日、リリアは独りで平原に立っていた。


膝ほどの高さでゆらめく、小さな瘴気。

王城から案内してくれた兵士は、「一人で問題ないでしょう」と、背を向けて戻っていった。

かつて、帝国が総力を挙げて守っていた聖女を、魔物の潜む荒野に独り置き去りにして。


静かな風が吹く。


風に乗って聞こえてくるのは、遠い王都の歓声。またセラフィーナが、祈りによって「綺麗に」闇を払ったのだろう。


「……」

リリアは、ゆっくりと右手の絹の手袋を外した。

誰に見せる必要もない、醜く黒く変色した手。その禍々しい黒は腕全部を染め上げている。

彼女は、それを躊躇いなく黒い霧の中へと差し入れた。


――熱い。


焼けるような感覚が、神経を逆撫でしながら身体の奥へと流れ込む。

けれど、かつてのような恐怖はなかった。


(……おなか、すいた)


胸の奥で、ドロリとした何かが、同質の毒を求めて歓喜に震えている。

痛みを凌駕する、抗いがたい飢餓感。


リリアは、小さく、震えるような吐息を漏らした。


誰もいない、広く静かな平原。

自分を案じる者も、自分を「不浄」と蔑む者も、ここにはいない。

聞こえるのは、風の音と、自分の中で毒が跳ねる音だけ。


「いただきます……」


掠れた声で、リリアは誰にも聞こえない挨拶を零す。

彼女は、一人きりの荒野で、静かに瘴気を喰らい始めた。


それが、自分という人間をこの世界に繋ぎ止める、唯一の――そしてあまりにも孤独な「食事」であるかのように。

浄化の後に残るのは、美しき光の奇跡ではない。

ただ、リリアの体内に蓄積されていく、重く暗い「死」の重みだけだった。

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