40 体に合わない
リリアは、もう一度、聖女についての文献を読み直していた。
指先の震えを抑えながら、古びた羊皮紙のページを捲る。
擦り切れた紙の匂いと、微かなカビの香りが、肺の奥まで冷たく入り込んでくる。
彼女の目は、一つの見出しに釘付けになっていた。
『聖女制度』
「……聖女、制度……?」
乾いた唇から、掠れた呟きが漏れる。
この本は、帝国に召喚された直後、貪るように何度も読み返したはずのものだった。それなのに。
(……こんな記述、あったっけ?)
記憶の断片が、パズルのピースが合わないように食い違っている。
リリアは、吸い込まれるように文字を追った。
そこには、かつての記憶には存在しないはずの一行が刻まれていた。
『――召喚されし聖女を、元の世界へ帰還させる術式もまた、同時に確立されている』
(……帰れるんだ)
その事実を知った瞬間、胸を突くような衝撃があるかと思った。だが、リリアの心に浮かんだのは、凪いだ海のような淡い感想だけだった。
帰る場所。そこは、飢えと冷たさに支配されたスラムの路地裏だ。親に「いらない」と背中を蹴られ、泥水を啜って今日を繋ぐだけの、地獄のような日々。
あの場所に戻りたいなんて、微塵も思わない。
瘴気に身体を焼かれ、腕を黒く腐らせるこの国での生活の方が、少なくとも「リリア」という名前を呼ばれ、誰かの役に立っている実感があったのだから。
視線を落とし、続きを追う。
聖女の力の性質。浄化の方法は千差万別であり、祈りによって払う者もあれば、術式によって封じる者もある。
(……これは、覚えている。読んだ記憶がある)
けれど、それ以外の部分は――まるで、今この瞬間に、白紙だったページに文字が浮き上がってきたかのような錯覚に陥る。
リリアは本を閉じ、重い沈黙の中に身を浸した。
先ほど別の文献で見つけた「精神干渉」という言葉が、頭の中で回っている。
精神干渉。魅了。
そして、あのセラフィーナが近づくたびに感じる、身体の芯を凍らせるような寒気。
(……まさか)
そんなはずはない。セラフィーナは、あんなに無邪気で、清らかな少女だ。
彼女が意図的に、この城の人間たちの心を操っているなんて。
けれど。
セラフィーナという存在そのものが、あまりにも「正しすぎる光」なのだ。彼女がただそこにいて、無邪気に微笑むだけで、周囲の男たちは吸い寄せられるように跪き、彼女の望む世界へと作り替えられていく。
本人の意志とは関係なく、彼女の存在そのものが、周囲を塗り潰す「色」になってしまっている。
かつて、リリアに向けてくれたジークヴァルドの慈しみ。
イーサンの、静かだが確かな信頼。
ゲルハルトの、不器用な優しさ。
そして、カイルが見せてくれた、あのひたむきな守り。
すべてがセラフィーナという光の前に、上書きされるように塗り潰されてしまった。
だが、なぜ。
なぜ、リリアだけが、その幸福な熱狂の輪から取り残されているのか。
(……ああ、そうか)
リリアは、自分の胸元を強く握りしめた。
自分は聖女なのだ。
自分の身に流れる聖なる力が、「魅了」を、異物として認識している。
精神干渉への抵抗。
城中の人々が、甘い夢に酔いしれるように彼女を崇拝する中で、リリアだけがその「毒」を飲み込まず、冷たい素顔の現実を見つめ続けている。
その拒絶が、あの悍ましい「寒気」の正体だった。
ぞくり、と。
背筋の奥底を、冷たい蛇が這い上がるような感覚。
「……っ」
思わず、自分の細い肩を強く抱きしめる。
最近、ずっと付き纏っているあの寒気。宮廷医は「疲れによる風邪だ」と言っていたが、今はもう、はっきりと分かる。
この寒気は、リリアの肉体が外側から押し寄せる「セラフィーナの光」に対して発している、剥き出しの警告だ。
リリアはそっと息を吐き、震える指先を手袋の中に隠した。
王城の中庭からは、遠く、楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
鈴を転がすような、あまりにも美しい声。セラフィーナだ。
その声が耳に届いた瞬間、背中の寒気は、刺すような痛みに変わった。
「……」
リリアは小さく眉を寄せ、窓の外の景色を、まるで見知らぬ異国の空のように見つめた。
華やかな王城。熱狂する騎士たち。
すべては幸福に満ち、理想の世界を体現している。
――けれど、リリアだけが、その眩しすぎる光の裏側で、静かに蝕まれていく世界の「ひずみ」を感じ取っていた。
(……城が、変だ)
(けれど)
(城がおかしいと気づいているのは、どうやら私だけらしい)




