39 禁断の果実
書庫の最奥、高い棚の隅には、長い年月放置され人の手が入らない区画がある。
革の背表紙はひび割れ、かつての栄光を示す金の箔押しもほとんど剥げ落ちている。そこは帝国が成立する以前の、失われた古い文書の写本が眠る場所だった。
リリアは不安定な脚立に登り、最上段から一冊の本を慎重に引き抜いた。
ぱらり、と白い埃が舞い、鼻をくすぐる。
「……重っ…」
ふらつく足取りで机まで運び、ゆっくりとその表紙を開く。古紙特有の、時が止まったような匂いが鼻腔を突いた。
表題には、掠れた文字でこう記されている。
『古代魔法概論』
リリアは驚きに目を丸くした。
「魔法……」
胸が、密かな期待に小さく躍る。
今の帝国において、魔法はすでに失われた技術だ。遠い昔には存在したらしい、という御伽話に近い存在。以前いた世界のスラムで拾ったボロボロの絵本にも、その輝かしい力が描かれていた。
炎を生み、空を駆け、遠くの声を届ける奇跡。
(なんだか、物語の中にいるみたい)
リリアは少しだけ唇を綻ばせた。
ページをめくると、そこには体系的な記述が整然と並んでいた。
元素魔法、治癒魔法、転移魔法。
現代では失われた叡智の数々。
聞き慣れない専門用語が羅列されているが、なぜか読むのが楽しかった。知らない国の歴史を紐解いているような、不思議な高揚感がある。
「……精神干渉魔法?」
ふと、見慣れぬ項目で指が止まった。
そこには、こう定義されていた。
――精神に作用する魔法の総称。誘導、幻惑、暗示、魅了。
リリアは小さく首を傾げた。
(精神を……操る?)
ページをめくると、その項の下に小さな注釈が添えられていた。
『聖なる力と精神干渉について』
その一文に、吸い寄せられるように視線を落とす。
『過去、聖なる力を持つ神官が精神干渉魔法を受けた際、特異な反応を示した記録がある』
『当該の神官は、魔法の発動時および持続時に、激しい寒気を覚えたと証言している』
リリアの指先が、凍りついたように止まった。
(……寒気)
背筋を、冷たい刃でなぞられたような衝撃が走る。
『これは精神干渉に対する抵抗反応である。精神への不当な侵入を拒絶する際、聖なる力が身体に抵抗魔力を流すため、それが寒気として発露する例が確認されている』
リリアはしばらく、その行を凝視したまま動けなかった。
書庫の中は、死んだように静まり返っている。
遠くで隙間風が紙を揺らす音が、誰かの囁き声のように聞こえた。
リリアの背中を、またあの逃げ場のない寒気が、ゆっくりと這い上がってくる。
「……っ」
もう一度、震える目で文章を追う。
精神干渉。抵抗反応。
ゆっくりと、地獄の底を覗き込むように視線を下へずらしていく。
精神干渉の分類。
そこに並ぶ項目の一つに、その言葉はあった。
――魅了
その文字が視界に入った瞬間、リリアの心臓が、耳元で聞こえるほど激しく脈打った。
(……え)
思考が、真っ白に塗り潰される。
城の中の、あの異様な光景が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
侍女たちの陶酔したような祈り。
騎士たちの盲目的な熱狂。
「聖女様、聖女様」と、壊れた機械のように繰り返される賛辞。
そして――。
セラフィーナの、あのひどく無垢で、恐ろしいほどに明るい笑顔。
「……」
リリアは、弾かれたように本を閉じた。
手のひらがじっとりと湿り、嫌な汗が背中を伝う。
(まさか。そんなこと、あるわけがない)
心の中で必死に否定する。
あの人はただ、太陽のように明るくて、みんなに愛される資格がある人なだけだ。自分とは違う、本物の「光」を持っているだけなんだ。
リリアは強く、何度も首を振った。
(考えすぎ。私が、おかしいんだ……)
そう自分を責め、無理やり納得させようとする。
しかし。
骨の髄まで冷やしていくあの不吉な寒気は、どれだけ自分を騙そうとしても、一向に消え去ってはくれなかった。




