4 下茹で
扉を押し開けると、広い浴室には白い蒸気が濃く立ち込めていた。
控えていた侍女たちが無言で歩み寄り、包囲するようにリリアを囲む。
「まずは、お召し物を――」
差し伸べられた無機質な手に、リリアの全身が石のように硬直した。
「や、やだ……っ、触らないで……!」
悲鳴に近い声が口を突き、リリアは必死に後ずさる。
脳裏を焼くのは、泥を啜るようなスラムの夜。
逃げ場のない路地裏で、自分よりも大きな男たちに強引に身体を弄られた、あの悍ましい記憶。
侍女は眉ひとつ動かさず、感情を削ぎ落とした声で告げる。
「ご安心くださいませ。お手伝いするだけですから」
「嫌……っ、自分で、自分でやるから……!」
震える声が蒸気に巻かれ、弱々しく霧散する。
侍女たちは無理強いこそしないが、逃げ場を塞ぐように、一定の距離を保ったまま手を差し伸べ続けている。
彼女たちにとっては「当然の奉仕」でも、リリアにとっては「拒絶を許されない侵食」だった。
安全なはずの場所で、心が悲鳴を上げる。
「……触らないで……」
切迫した呟きが、冷たい壁に反響する。
男たちに組み伏せられ、絶望の中で指先まで凍りついたあの感触。
今この瞬間も、肌の上で蠢いているように思えた。
リリアの激しい拒絶を受け、侍女たちはわずかに視線を交わし、一歩退いた。
「……承知いたしました。では、私共はあちらで控えております」
力ずくではなく、淡々と距離を置くその無関心さに、リリアはようやく微かに肩の力を抜いた。
湯船の縁にそっと手をかけ、指先を沈める。
「あ……」
肌を刺すような熱。けれど、その温もりが芯まで冷え切った身体に伝わるたび、固まっていた強張りが少しずつほどけていく。
――ここは安全な場所。
でも、誰も信じてはいけない。
リリアは意を決し、震える身体を湯の中に沈めた。
湯面にさらされた肌には、消えることのない痣や傷跡が刻まれている。
長い間、汚れた衣の下に隠し続けてきた「生きた証」が、湯に濡れて生々しく光る。
侍女たちは遠くから、石像のように見守るだけ。
誰も強制せず、触れもせず、ただそこに在る。
リリアは深く息を吐き、浮力に身を委ねた。
熱が恐怖を溶かしていく。けれど、芯にある冷えは完全に消えない。
心地よさと不安の狭間で揺れながら、リリアは水面に映る自分を見つめ、そっと呟いた。
「……私、ここにいても……いいの?」
静かな湯音だけが、答えのように響いた。
湯面に映る自分の姿を、リリアはじっと見つめていた。
そっと息を吐き出す。
熱が、肌にこびりついた恐怖を少しずつ溶かしていく。
けれど、芯にある冷えまでは、完全には消えてくれない。
心地よさと不安の狭間で、湯の中の体がゆらゆらと揺れる。
リリアは、静かに目を閉じた。
耳に届くのは、微かな湯の音だけ。
侍女たちは遠くで石像のように控え、視線すら合わせず、ただそこに存在している。
入浴前の激しい拒絶を見て、彼女たちは瞬時に悟ったのだ。
この少女が、何よりも「他人に触れられること」を恐れているのだと。
だから、誰も強制せず、干渉もしない。
その「徹底された配慮」という名の優しさが、リリアの強張った肩を少しずつ解かせていった。
「あ……あたたかい……」
小さく呟き、指先をさらに深く沈める。
皮膚に残る痣や傷跡を熱が包み込むたび、過去の記憶が波紋のように広がった。
けれど同時に、熱は冷え固まっていた身体の奥底まで届き、頑なだった心を解きほぐしていく。
深く息を吸い込む。
心臓の鼓動が、胸の奥で柔らかく響いた。
――ここは、安全な場所。
今はもう、誰も私を傷つけない。
浴室から上がると、侍女たちは一歩下がり、温かなタオルを差し出した。
あえて手は貸さない。
先ほどのやり取りから、彼女たちはリリアが「自分の領域」を守りたがっていることを正しく理解していた。
「……あ、ありがとう……」
震える手でタオルを掴み、ぎこちなく身体を拭う。
侍女たちは動かず、視線も合わせず、ただ静かに寄り添っている。
押し付けがましくないその距離感に、リリアの怯えは、ほんの少しずつ和らいでいった。
着替えを終え部屋に戻ると、重厚なベッドが彼女を待っていた。
清潔なシーツは温かく、厚みのある毛布が吸い込まれるように身体を包み込む。
リリアはぎこちなく背中を預け、吸い付くような枕に頭を落とした。
湯で温まった身体が、ゆっくりとシーツに沈んでいく。
抗いようのない眠気が、自然に押し寄せてきた。
心の奥でまだくすぶる不安。
けれど、それに耳を傾ける余裕もないほど、意識が遠のいていく。
「……ここに、いても……いいのよね」
呟きは小さく、誰の耳にも届かない。
けれど、答えを待つ必要もなかった。
微かな安心が、自分の中に芽生え始めているのを感じたから。
ゆっくりと呼吸を整え、すべてをベッドに委ねる。
夜の静寂に包まれながら、リリアは深い眠りへと落ちていった。




