37 冷蔵庫
それから、数日。
リリアは毎朝、同じ得体の知れない違和感とともに目を覚ますようになっていた。
「……さむい」
布団の中で、膝を抱えて小さく呟く。
窓から差し込む春の光はやわらかく、部屋は十分に暖められているはずなのに、体の芯だけがひどく冷える。震えるほどの激痛ではない。けれど、どうにも落ち着かない嫌な寒気が、背骨の奥深くに澱のように残り続けている。
(風邪、かな)
そう思って、自分の額に手を当ててみる。だが、熱はない。
咳も出ないし、喉の痛みもない。ただ、鉛を埋め込まれたように身体が重いのだ。
漠然とした不安を抱えながら、リリアはゆっくりと起き上がった。
ここ最近、瘴気の浄化のほとんどはセラフィーナが担っている。自分はただ、後ろで見守るだけ。最初は落ち着かなかったが、今では城の人々にとっても、それが「正しい聖女の在り方」として定着しつつあった。
リリアは指先の冷えと黒い色を隠すように手袋をはめ、部屋を出た。
(念のため、お医者様に聞いてみよう)
城には宮廷医がいる。体調を崩した騎士や貴族を診るための、一級の知識を持つ者たちだ。
「役立たず」と思われないかという不安はあったが、もし自分に何かあって浄化に支障が出れば、それこそ申し訳ない。そう自分を納得させ、医局の扉を叩いた。
「失礼します」
室内では数人の医官が忙しなく書類を整理していた。棚には高価な薬瓶が並び、濃い薬草の匂いが漂っている。
一人の年配の医師が顔を上げた。
「ああ……リリア様」
その声は形式上は丁寧だったが、どこか事務的で慌ただしい。
「どうなさいました?」
「あの、少しだけ寒気がして……。ここ数日、どうしても身体が冷える感じがして……」
リリアは控えめに、今の不調を説明した。医師はわずかに眉を寄せ、手元の書類から目を離さぬまま問い返す。
「寒気、ですか。熱は?」
「ないみたいです。でも、ずっと奥の方が冷たくて」
医師は軽く頷くと、ぱらりと資料をめくった。
「最近、お疲れなのでは?」
「え?」
「環境の変化もありましたからね。心因性のもの……つまり、気の持ちようということもあります」
あまりにあっさりとした言葉に、リリアは言葉を詰まらせた。
確かに、セラフィーナが来てからの城内は、かつてないほど浮き足立っている。侍女たちも、騎士たちも、皆が新しい光を求めて忙しなく動き回っている。
「……そう、かもしれません」
リリアは力なく微笑んだ。専門家にそう言われれば、自分の感覚の方が間違っているような気がしてくる。
医師は椅子に深く寄りかかり、診断を切り上げた。
「恐らく気のせいでしょう。風邪の症状は見受けられません。慣れない生活による疲労か、あるいは春先の気候の変化による一時的な不調かと」
そして、追い払うように軽く手を振った。
「しっかり食べて、よく休んでください。それで治りますよ。……次は、セラフィーナ様の健康診断の準備がありましたな」
あまりにも簡素な、突き放すような診断だった。
だが、リリアはそれを疑う術を知らなかった。
「そうですか……お忙しいところ、ありがとうございました」
深く頭を下げ、医局を後にする。
石造りの廊下を歩く足取りは重い。相変わらず、背骨の奥を氷の刃でなぞられるような感覚が消えない。
(やっぱり、私の気のせいなのかな)
リリアは廊下で立ち止まり、小さく伸びをした。
そういえば、まともな食事も数日取れていない。空腹が寒さを助長しているだけかもしれない。
(今日は、なんとかして食べよう。……少しでも食べれば、温かくなるかもしれないし)
自分を励ますように歩き出すと、向こうから騎士たちの声が聞こえてきた。
「聖女様の礼拝は今日もあるのか?」
「ああ。朝と昼、両方だ。あの方の祈りは、心が洗われるようだ」
「素晴らしいお方だな。俺達も祝福を授かれるなんて、光栄なことだ」
彼らはリリアの姿を認めると、一瞬だけ言葉を切り、義務的な一礼を送ってきた。
「……リリア様」
以前の、どこか親しげだった挨拶とは違う。壁を一枚隔てたような、遠い敬礼。
リリアは気にした様子もなく、いつものように微笑んで返した。
「お疲れさまです」
騎士たちは、リリアが通り過ぎるのを待つことさえ惜しむように、すぐに会話を再開させた。
「昨日も侍女たちが列を作ってたらしいぞ。聖女様のお言葉を一言でも聞きたいとな」
「当然だろう。あの方こそが、帝国の真の光なのだから」
その声を背に受けながら、リリアは歩き続けた。
高い窓から差し込む春の陽光は、城内を白く眩しく照らしている。
世界は、いつもと同じ、輝かしい朝の中にあった。
それなのに。
背中の奥に深く根ざした冷たい塊だけは、どれほど光を浴びても、どうしても溶けてはくれなかった。




