36 食べられない日
セラフィーナが瘴気に触れて負傷したその日を境に、王城の空気は目に見えない速度で変質していった。
ほんの少しだけ。
誰も明確に口に出すことはない。けれど、人々の視線の端に宿る温度が、以前とは明らかに違っていた。
最初に広がったのは、さざ波のような小さな噂だった。
「聞いたか? 新しい聖女様、瘴気に触れただけで火傷を負ったらしいぞ」
「そんなに危険なものなのか」
「当たり前だろう、瘴気だぞ。……じゃあ、どうしてリリア様は平気で触れていたんだ?」
その問いのあとには、必ず刺さるような沈黙が落ちた。
「……あの方は、瘴気を取り込むらしい」
「身体の中に、か?」
「……それは、本当に聖女の力なのか? まるで――」
その先は、誰も答えないまま霧散する。
だが、その毒を含んだ会話は別の誰かの耳に入り、また別の場所へと淀みを作っていく。城という場所は、噂という名の怪物が育つには、十分すぎるほど閉じた世界だった。
そして、噂とともに、もう一つ「変わったもの」があった。
その日の昼。リリアはいつものように、城の食堂へと足を運んだ。
瘴気の浄化を行わない日が続くと、身体が鉛のように重くなる。腹の奥に、底の抜けた穴が空いたような、ひどい空腹感が居座り続けるのだ。
(今日は、ちゃんと食べよう)
そう自分に言い聞かせて扉を押し開ける。
だが、食堂は妙に静まり返っていた。騎士も、侍女も、役人も、そこに人は大勢いる。
けれど、誰もリリアの方を見ようとしない。まるで、最初からそこに誰も存在していないかのように。
リリアは少しだけ首を傾げ、配膳の列へと並んだ。
順番が回ってきたが、料理係の男は鍋の底を覗き込み、一度も目を合わせぬまま困ったように呟いた。
「……申し訳ありません。今日はもう、残っていなくて」
「え?」
思わず聞き返す。まだ昼時だ。周囲では人々が当たり前のように食事を口にしている。
「本当に、何もないんですか?」
「はい。……その」
男は気まずげに視線を逸らし、吐き捨てるように言った。
「聖女様のお食事は、別に用意されていると聞いておりますので」
「……そうなんですか?」
リリアは目を丸くした。そんな話、誰からも聞いていない。
「どこで、頂けるんでしょう?」
「それは……」
男は口ごもり、結局、追い払うように曖昧に頭を下げた。
「申し訳ありません」
仕方なく、リリアは食堂を後にした。
石造りの廊下を歩く。腹の奥が、きゅう、と小さく鳴いた。
(……まあ、いいか)
そう、自分を納得させる。
今朝はちゃんと食べられたのだ。それだけでも、十分すぎるほど贅沢なことだ。
スラムにいた頃は、それが当たり前だった。
昨日食べていようが、今日は食べられない。今日食べられても、明日はわからない。
食べ物は、いつも自分の手の届かない場所へ逃げていくものだった。
手に入るときに詰め込む。無いときは、ただ我慢する。それだけが生きる術だった。
(今日は、食べられない日)
リリアは小さく頷いた。別に珍しいことではない。
むしろ、城に来てからの生活が、少しばかり出来過ぎていただけなのだ。
(明日、食べればいいや)
ふと、そう思って。リリアは自分自身の思考に少しだけ驚いた。
昔は、そんなふうに「明日」を計算することなどなかった。
明日という日は、あまりにも不確かで、信用に値しないものだったからだ。
でも、今は違う。王城に来てから、ずっと同じ朝が約束されていた。
ちゃんと太陽が昇り、ちゃんと日が沈んで、また次の日が来る。
だからきっと、明日も同じように朝が来るはずだ。
(明日、食べよう)
そう思えることが、なんだか少しだけ不思議で、嬉しかった。
そのとき。廊下の向こうから、弾むような楽しげな声が聞こえてきた。
「わあ、これも美味しい!」
セラフィーナの声だ。
「遠慮なさらず、どうぞ。聖女様」
「聖女様のお身体のためにも、しっかり召し上がっていただかないと」
開いた扉の隙間から、豪華な食卓が覗いた。
香ばしく焼けたパン。湯気の立つスープ。滴る脂が食欲をそそる肉料理。
その中心で、セラフィーナは花が咲いたように笑っていた。
「こんなに頂いてもいいんですか?」
「もちろんです。聖女様が元気でいてくださることが、帝国にとって何よりの救いなのですから」
リリアは、その光景を遠くから見つめた。
(よかった)
心の底から、そう思った。
あの子は、ちゃんと大事にされている。それは、とても正しいことで、いいことだ。
リリアは音を立てないよう、静かに踵を返した。
夕焼けが窓から差し込み、長い影が廊下を侵食していく。
お腹が、ぐう、と情けなく鳴った。
リリアは、自分でもおかしくなって、小さく笑った。
「……あれ?」
ぽつりと、独り言がこぼれる。
「ご飯って……逃げないんじゃ、なかったっけ?」
『飯は逃げねえ。欲しけりゃ言え』
そう言って豪快に笑った、ゲルハルトの言葉を思い出す。
誰もいない廊下で、彼女のその問いに答える者は、もうどこにもいなかった。




