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35 模倣

それから幾日。王城から少し離れた平原に、再び不浄の霧が立ち込めていた。


規模としてはごく小さい。かつてのリリアであれば、数分もあれば一人で飲み干してしまえる程度の澱みだ。


もっとも――それを彼女にさせるつもりの者は、もうこの場にはいない。

リリアの浄化が、瘴気をその身に取り込むことで成り立っていることは、すでに城内の上層部では周知の事実となっていた。


かつて皇帝ジークヴァルドは、彼女に無理をさせるなと命じたことがある。

だが今、その言葉の意味を気にかける者は、ほとんど残っていない。

ただ一つの事実だけが共有されている。


――聖女リリアは、瘴気を喰らう。


それだけだ。

そして今、その必要はなくなった。

この場所に立つのは――

新たな聖女、セラフィーナだからだ。


実際、彼女がその場に立つだけで、黒い霧はおびえるように形を崩し、霧散し始めていた。

「やっぱり、私でも大丈夫そうですね!」

セラフィーナは、春の陽光のような笑顔を振りまいた。


彼女の周囲には、今や影のように付き従う主賓たちが揃っている。本来なら執務室で報告を待つはずの皇帝ジークヴァルド、常に冷静なイーサン。そして、競い合うように彼女の傍を固めるゲルハルトとカイル。


そして、そこから十歩ほど離れた後方に、リリアもいた。

それ以上近づくと、瘴気の影響で目眩を起こしてしまうからだ。


あの日以来、セラフィーナが「リリアさんに見ていてほしいんです」と無邪気にねだるため、リリアは彼女の浄化に同行させられることが増えていた。


「このくらいなら、祈らなくても消えちゃいそうですね」

セラフィーナは、足元の瘴気をのぞき込みながら、歌うように言う。

黒い霧は、彼女の神聖な気配を恐れるように、じりじりと後退していく。


「……」

リリアは、ただ無言でその光景を網膜に焼き付けていた。


胸の奥が、ちりりと疼く。


湿った土と、腐敗した何かが混ざり合った、あの瘴気の匂い。

(……おなか、すいた)

ふいに脳裏をよぎった空腹感に、リリアは戦慄して小さく首を振った。

自分の中に溜まった毒が、同類を求めて鳴いている。そんな感覚を、必死に押し殺す。


その時だった。


「そうだ!」


セラフィーナが、何か名案を思いついた子供のように、ぱっと顔を輝かせた。


「この前、リリアさんがやってたやつ! 私もやってみたいんです!」

くるりと振り返る彼女に、イーサンがわずかに眉を動かした。

「……やってみる、とは?」


「瘴気に、直接触れて浄化するやつです!」

あまりにも無邪気な、好奇心に満ちた声だった。

リリアの指先が、手袋の中でぴくりと跳ねた。


「それは――」

制止の言葉を紡ごうとしたリリアの唇は、続くセラフィーナの明るい声にかき消された。


「リリアさん、普通に手を触れてましたよね? 私も同じ聖女なら、できるのかなって」

その瞳には、一欠片の疑念も、恐怖もない。


ジークヴァルドは腕を組んだまま、それを見ていた。

リリアの浄化がどのようなものか、彼は知っている。

だが、何も言わなかった。

「……無理に試す必要はない。君は、そこにいるだけで十分だ」

穏やかな声。

だが、止める意思は弱い。


「まあ、危なくなりゃすぐに離れりゃいいだろ」

ゲルハルトも、どこか楽観的に肩をすくめた。


セラフィーナの周囲では瘴気が勝手に消えていくのだ。

誰も、最悪の事態など想定していなかった。


「ちょっとだけ、ですから」

セラフィーナは楽しそうに頷き、地面に這いつくばるように漂う黒い霧の端へ、ゆっくりと手を伸ばした。


そして。

真珠のように白い指先が――そっと、黒い澱みに触れた。


次の瞬間。

「キャッ……!」

短い悲鳴。


大人しく退いていたはずの瘴気が、一瞬にして逆巻いた。まるで異物を排除しようとする拒絶反応のように暴れ狂い、セラフィーナの指先に絡んだ。

白い肌から、じゅっと嫌な音を立てて白い煙が上がった。


「セラフィーナ!」

ゲルハルトの怒声が響き、カイルが弾かれたように前に出る。

セラフィーナは驚愕に目を見開いたまま、弾かれるように手を引いた。

「え……?」

彼女の指の先には、黒い焼け跡が点のように残っていた。


傷自体は浅い。命に別状などない、小さな火傷だ。

瘴気はその後、恐れをなしたかのように、急速に霧散して消えた。

だが、その場の空気は一瞬で氷点下まで凍りついた。


「痛っ……」

セラフィーナが、痛みに耐えるように小さく顔をしかめる。

それだけで、男たちの理性は吹き飛んだ。


「医官を呼べ! 急げ!」

ゲルハルトが周囲を怒鳴りつけ、カイルはすでに彼女の前に膝をつき、祈るような手つきでその小さな手を掬い上げていた。

「大丈夫だ、傷は浅い。……だが、なぜこんなことに」

カイルの声は、怒りと困惑で低く張り詰めている。


セラフィーナは、涙を溜めた瞳で戸惑うように笑った。

「ご、ごめんなさい……。リリアさんが軽々とやってたから、私もできるかなって思っただけで……」

その言葉が、残酷なまでの比較となって場に突き刺さる。


沈黙を守っていた老神官が、震える声でぽつりと呟いた。

「……そうとも。あってはならないことだ」


すべての視線が、老神官へと注がれる。

「聖女様の御力とは、触れずとも闇を退ける至高の光のはず。それを、わざわざ自らの身に取り込むなど……」


神官の視線が、ゆっくりと、そして刺すような冷淡さを孕んで、後方に立つリリアへと向けられた。


「……それは、本来の聖女の在り方ではない。毒を喰らい、身を汚すなど……不浄の業だ」


空気が、悲鳴を上げるように軋んだ。


ジークヴァルドの鋭い眼差しが、カイルの射貫くような視線が、リリアを捉える。


セラフィーナが流した「一滴の涙」と、彼女の「白い肌を汚した黒い跡」。


それが、リリアがこれまで数え切れないほど繰り返してきた献身を、「聖女としてあるまじき異端の振る舞い」へと塗り替えてしまった。


リリアは何も言えなかった。

ただ、少し離れた影の中で、手袋の下の腕を強く抱きしめて立ち尽くしていた。

両腕が、今まで感じたことのないような、嫌な疼きを上げている。


(……私は、間違っていたの?)


セラフィーナを囲む男たちの輪は、より強固に、より排他的に固まっていく。

「不浄」という言葉の毒が、静かにリリアの存在を蝕み始めていた。

それがこの城で、どのような「断罪」へと繋がっていくのか――まだ、誰も口にはしていなかった。

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