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34 濁り

数日後、王城の空気は、再び張り詰めていた。


当初、小規模として「様子を見る」と判断された瘴気は、短期間で予想を上回る濃度へと膨れ上がっていた。

広がりこそ緩やかだが、その内部に淀む黒い濁りは、生物の生存を許さない危険域に達している。


そして今。その死の霧の前に立っているのは――

新たな聖女、セラフィーナだった。


「うわあ……」

彼女は、目の前を這い回る黒い奔流を見て、少しだけ目を丸くした。


それはリリアがこれまで幾度となく相対し、その身を挺して食い止めてきた「呪い」そのもの。

地面から腐臭と共に湧き上がる黒い澱は、触れれば鋼すら腐食させ、吸えば肺の内側を灰に変える。


だが。

セラフィーナに怯える様子は微塵もなかった。むしろ、珍しい異国の果実でも眺めるように、興味深げにそれを見つめている。

「これが……瘴気なんですね。思っていたより、ずっと真っ黒」


背後には、皇帝ジークヴァルド、補佐官イーサン、そしてゲルハルトとカイル。彼らは、昨日までの熱狂をそのままに、固唾を飲んで「新しい希望」の背中を見守っている。

そして――。


彼らから数歩、さらに数歩離れた場所に、リリアが立ち尽くしていた。


(……う、……っ)

無意識に、手袋の下の右腕を逆の手で強く握りしめる。


この距離であっても、リリアの肉体は過敏に反応していた。

胸の奥が、熱した鉄を押し当てられたように焼ける。喉の奥に泥が詰まったような不快感がせり上がり、肺の内側がギチギチと軋む。

小さな瘴気の一片でさえ、今の彼女の身体には致死の毒。


呼吸が、目に見えて浅く、苦しくなる。


だが、目の前のセラフィーナは。

「うーん……」

彼女は、まるで今日の献立に悩む少女のように、可愛らしく首を傾げていた。


「これ、どうすればいいんでしょう? やり方、習ってないですし」

困ったような、甘えたような声。誰も答えを返せない。

聖女の浄化とは、理屈を越えた神秘だ。それは当人にしか分からない「感覚」の領域であり、教えられるものではない。


セラフィーナは少し考え、ふっと悪戯っぽく笑った。


「……でも。こういうのって、普通は『祈る』んですよね?」


絵本を読み聞かせる子供のような、柔らかな声音。

「私のいた世界の物語でも、聖女様はみんな祈って解決してましたし。真似してみますね」


そう言って、彼女は静かに目を閉じた。


その横顔には、リリアが戦場で浮かべてきたような悲壮感も、命を削る覚悟もなかった。どこか、新しい遊びに興じるような、軽やかな気配すら漂っている。


「ええと……」

小さく、可愛らしく息を吸う。


「この土地が、元気になりますように!」


その瞬間だった。


――ふわり。

温かな、春の風が吹き抜けたような感覚。


居合わせた者全員が、肌を撫でる不思議な波動を感じた。

次の瞬間、黒い瘴気の霧が、まるで日の光を浴びた朝霧のように、一気に形を崩していく。


「……えっ、?」

リリアは、目を見開いた。


セラフィーナはまだ目を閉じ、祈りの形を崩していない。


だが、変化は劇的だった。彼女がただそこに立ち、「元気になれ」と願っただけで、あの悍ましい瘴気が――触れるものすべてを腐らせてきたはずの死の澱が、まるで拒絶されるように、淡く、薄れ、消えていく。


数歩、セラフィーナが無邪気に前に進む。

それだけで。

彼女の歩みに合わせて、瘴気が道を譲るように霧散した。


セラフィーナが目を開く。

そして、目の前に広がった「浄化後」の青空を見て、ぱっと顔を輝かせた。


「わあ! 消えました! 見てください、陛下! 本当に消えましたよ!」


くるりと振り返るその笑顔は、純粋な達成感と喜びに満ちていた。


「やっぱり、祈りって大事なんですね! 私でも役に立ててよかった!」


小さな成功を親に報告する子供のように、彼女は跳ねるような足取りで戻ってくる。

皇帝たちは、一瞬、あまりの鮮やかさに言葉を失っていた。そして――。


「……奇跡だ。これこそが、真の浄化……」


誰かが、魂を揺さぶられたように呟いた。

空は、かつてないほどに高く、澄み渡っている。

瘴気は、その場所から消え去っていた。


そして。

その後ろで、リリアは石のように立ち尽くしていた。


(……うそ)


(近づいた、だけで。祈った、だけで……)


リリアの手袋の下の腕が、じわりと、言いようのない熱を持つ。


彼女は知っている。


自分が瘴気に触れるとき、指先から何が入り込み、どうやって身体を壊していくか。

焼けるような痛み。

内側から腐っていく恐怖。

それを「喰らう」ことでしか、浄化できないのだと信じてきた。


だが、セラフィーナは。


ただの一度も、瘴気に触れることすらなかった。


彼女は「喰らう」必要などないのだ。光を放つだけで、闇は勝手に消えていく。


「リリアさん!」

弾んだ声が飛んできた。

セラフィーナが、子犬のような足取りでリリアへ駆け寄ってくる。


「見てくれました!? 私、できちゃいました!」

瞳がきらきらと、宝石のような輝きを放っている。


「私、魔法とか使えないから不安だったんですけど……。私でも、ちゃんと聖女、できそうです!」

悪意など、一欠片もない。

あるのは、自分を認めてもらいたいという、あまりに純粋な子供の喜び。


リリアは、その眩しすぎる笑顔を見つめた。


胸の奥が、ぐらりと揺れる。

自分を支えていた、唯一の誇り――「私にしかできない」という、あの命懸けの献身が、今、完璧な美しさの前に粉々に打ち砕かれた。


リリアは、その眩しすぎる笑顔を見つめた。

何かを言おうとして、言葉が出ない。

何を言えばいいのか、分からなかった。


リリアは、震える唇を必死に抑え、ゆっくりと微笑んだ。


「……はい」


声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「すごいです、セラフィーナさん。……本当に」


それは、嘘ではなかった。

自分の存在など不要だと言わんばかりの、あまりに完璧で、残酷な奇跡。


背後で、カイルたちがセラフィーナを囲み、賞賛の言葉を投げかけている。

「素晴らしい、セラフィーナ様」

「これこそが帝国の光だ」

その輪の外側で、リリアは静かに自分の右腕を抱きしめた。


痛みは消えた。それなのに、胸の奥には、瘴気よりもどす黒い孤独が、静かに、そして確実に満ち始めていた。

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