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32 果実

召喚の儀の翌日。

王城の朝は、皮肉なほどにいつもと変わらない静けさに包まれていた。

リリアは、久しぶりに自分の部屋で目を覚ました。


三日間眠り続け、目覚めたあとも宮廷医の部屋で厳重に静養するように言われていたはずだったが――今朝、侍女から事務的な口調で突然告げられたのだ。

「本日から、ご自室へ戻られて構いません。移動の制限も解除されました」


理由は特に説明されなかった。

けれどリリアは、深く考えなかった。体調が落ち着いたからだろう、と。それだけのことだと思い、いつもの白い聖装に身を包む。

鏡の前で、黒く焦げた腕を隠す絹の手袋を整えると、彼女は静かに部屋を出た。


向かう先は、彼女にとって唯一心が休まる場所――書庫だった。


巨大な扉を押し開けると、懐かしい紙とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。高い天井まで整然と並ぶ書棚。窓から差し込む柔らかな陽光。そこには、変わらない静寂があった。

「……久しぶり」

誰に言うでもなく呟く。


遠征と昏睡で、数日間遠ざかっていた机の上には、あの日書きかけだった資料がそのまま残されていた。

瘴気の発生地点を記した地図、そして解読の途中で止まった古い伝承の記録。


リリアは椅子に座り、そっとページをめくった。

いつもなら、書庫にいる間は必ず護衛がつく。

無骨だが安心感のあるゲルハルトか、あるいは鋼のように冷徹で、けれど常に背後を守ってくれていたカイル。


だが――今日は、誰の気配もしなかった。


リリアは少しだけ首を傾げたが、すぐに視線を本へ戻した。

(皆さん、忙しいのかもしれない。……新しい聖女様が、来られたばかりだもんね)

城中が浮足立っているのは、朝の侍女たちの浮ついた空気からも察せられた。

それ以上は気にせず、リリアは静かにペンを走らせた。カリカリと紙を削る音だけが、広い空間に吸い込まれていく。


どれくらい時間が経っただろうか。

不意に、重厚な扉が静かに、けれど堂々と開かれた。

リリアは顔を上げる。そこに立っていたのは、皇帝ジークヴァルドを先頭にした、帝国の重鎮たちだった。

補佐官イーサン、ゲルハルト。そして、カイル。


彼らが形作る輪の中心に、昨日召喚されたばかりの、あの輝くような少女の姿があった。


「ここが王城の書庫です」

イーサンが、慈しみに満ちた穏やかな声で説明している。

「帝国中のあらゆる英知と、悠久の歴史がここに眠っています」

少女はきらきらと目を輝かせ、子供のように辺りを見回した。

「わあ……すごい……! 本当に物語に出てくる魔法の図書館みたい!」

天井まで続く書棚を見上げ、無邪気な感嘆の声を上げる。


「こんなにたくさん本があるんですね! 私、全部読めるかな?」

その言葉に、ゲルハルトが豪快に笑った。

「全部か? ははっ、そいつは三百年あっても足りねえぞ、聖女様」

「えー! じゃあ、面白い本だけ教えてくださいね、ゲルハルトさん!」

少女が楽しそうに笑うと、その場の空気が春の陽だまりのように温かく解けた。


そのとき。

少女の視線が、部屋の隅の机に座るリリアに留まった。

「あれ?」

小さく首を傾げる。


「人がいる」


その一言で、周囲の視線が一斉にリリアへと向けられた。

一瞬。ほんの一瞬だけ、凍りついたような奇妙な沈黙が流れる。


リリアは椅子から立ち上がり、静かに頭を下げた。

「おはようございます、陛下。……皆様も」

いつもと変わらない、控えめな挨拶。


だが、ジークヴァルドは一瞬だけ、見るべきではないものを見たかのように言葉を失った。そしてすぐに、取り繕うような穏やかな笑みを浮かべる。


「……ああ。リリアか。もう動いて大丈夫なのか」

その声音には、いたわりよりも、どこか場にそぐわない異物を目にした時のような戸惑いが混ざっていた。


新しい聖女は、興味深そうにリリアを見つめた。

「この人も……」


そして、悪意の一片もない、あまりに屈託のない声で言った。

「この人も、私と同じ『聖女』なんですか?」


その問いが、静かな書庫に冷たく響き渡る。


リリアは、手袋の下でわずかに指を震わせた。

昨日、ほんの少しだけ薄くなったはずの「黒い煤」が、急にひどく熱を持ったような気がした。

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