30 おかわり
宮廷医の部屋は、清潔な空気に包まれている。
リリアはまだ黒く焦げた腕を抱え、寝台に身体を預けて窓の外を見つめている。小さな瘴気が遠くでざわめいていることを、彼女は既に察知していた。
ジークヴァルド、イーサン、ゲルハルト、そしてカイル。四人は、それぞれの位置から、静かに、しかし厳しくリリアを見守っていた。
皇帝ジークヴァルドが、深く息を吐く。
「リリア。君に知らせねばならぬことがある」
リリアはゆっくりと顔を上げ、穏やかに頷いた。
「はい……何でしょうか」
「今回、瘴気の規模が小規模では済まなくなった。現状では、君を再び浄化に向かわせるわけにはいかない」
その言葉は、彼女を守ろうとする意図と、皇帝としての苦渋の決断を同時に伝えていた。
リリアの瞳が、わずかに陰る。
「……そうですか……」
掠れた声で、目を伏せる。
「でも……誰かが行かないと、広がってしまいますよね……」
「君の代わりとして、新たな聖女を召喚することにした」
言葉を聞いたリリアは、一瞬、目を見開いた。
微かな息を吐き、そしてジークヴァルドを見返した、そのとき――その瞳には、少しだけ、悲しみが滲んでいた。
「……わかりました」
掠れた声で答えたその声に、ほんのわずか、震えが混ざる。
リリアは心の奥で、そっと考えた。
(新しい聖女も……苦しむのかもしれない……)
言葉には出さず、ただ胸の奥で思うだけ。
自分が経験したあの痛みを誰かに繰り返させたくない――けれど、黙って見守ることしかできない。
「召喚は数日後だ。準備は整い次第、すぐに行う」
皇帝の声は、穏やかで、絶対的だった。
リリアは目を伏せたまま、小さく、ゆっくりと息を吐く。
「……分かりました。私も、見守ります」
カイルは傍らで、彼女の呼吸を数えながら、心の奥で誓った。
――二度と、あの山で見たあの顔を、再び苦しめはしない。
窓の外でざわめく瘴気の気配を感じながらも、リリアは静かにシーツに身を沈め、己の役目を胸に抱きながら、静かに見守ることを選んだ。
王城の深奥に位置する「儀式の間」は、呼吸さえも憚られるような静寂に包まれていた。
床一面に刻まれた巨大な魔法陣が、微かな唸りを上げて青白い光を放ち始めている。その中心に立つ皇帝ジークヴァルドの横顔は、彫像のように厳格で、一国の命運を背負う者の覚悟を滲ませていた。
リリアは、陣から少し離れた特設の席に座り、その光景をじっと見守っていた。
体調は、三日前の昏睡が嘘のように落ち着いている。むしろ、自分の中に溜まった瘴気の澱が、この神聖な魔力に共鳴してわずかに中和されているのか、身体が不思議と軽い。
けれど、膝の上で組まれた手には、力がこもっていた。
絹の手袋に隠された両腕は、今もなお、醜く黒く変色したままだ。
(新しい、聖女様……)
リリアは、光の渦の向こう側に思いを馳せる。
ジークヴァルドは「君の負担を減らすためだ」と言ってくれた。イーサンも「効率的な分担が必要だ」と説いた。皆、リリアを思っての決断なのだと分かっている。
けれど、リリアの胸にあるのは、解放感ではなかった。
(もし、あの人も……私と同じように、苦しむことになったら)
瘴気をその身に取り込む瞬間の、血管を熱い泥が駆け巡るような苦痛。
指先から心が死んでいくような、あの孤独な感覚。
それを誰かに肩代わりさせるのだと思うと、申し訳なさで視界が潤みそうになる。
だが、リリアはすぐにその想いを胸の奥底へと押し込めた。
「苦しい」なんて、贅沢な悩みだ。自分のような薄汚い女を、ここまで大切に扱ってくれる帝国のために、そして民のために。
新しく来る聖女様が、どうか自分よりもずっと優秀で、痛みを感じることなく世界を救える人でありますように。
「――始まります」
補佐官イーサンの鋭い声が、儀式の間を切り裂いた。
魔法陣の光が、臨界点を迎える。
爆発的な白銀の輝きが部屋を満たし、リリアは思わず腕で目を覆った。
大気が激しく震え、空間そのものが軋むような音が響く。
「……っ」
傍らに控えるカイルが、無言のままリリアの前に一歩踏み出し、光の圧力から彼女を庇うように立つ。その背中越しに、リリアは祈るように目を凝らした。
光が収束していく。
白銀の輝きの中心に、
ぼんやりとした影が浮かび上がった。
やがて、それは人の輪郭を持ち始める。
異世界から、帝国の新たな希望として召喚された、二人目の聖女。
リリアは、胸に秘めた複雑な同情と、精一杯の「歓迎」を抱えながら、新しく現れたその人物へと視線を向けた。
(……どうか、あたたかい場所でありますように)
リリアの切なる願いを乗せて、運命の歯車が、重く、高く、音を立てて回り始めた。




