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29 膳待ち

宮廷医の部屋には、硝子細工を扱うような危うい沈黙が満ちていた。

リリアが三日間の昏睡から目を覚まして、まだ半日も経っていない。


それでも彼女は寝台の背に身体を預けながら、じっと窓の外を見つめていた。

まるで、遠くの何かを探るように。


その様子を、帝国の頂点に立つ四人の男たちが、それぞれの位置から石像のように見守っていた。

窓際の机に寄りかかり、深く腕を組む皇帝ジークヴァルド。壁際で音もなく書類を繰りながら、眼鏡の奥で冷徹な観察を続けるイーサン。落ち着かない様子で何度も足を組み替え、苛立ちを隠そうともしないゲルハルト。

そして、リリアのすぐ傍らに立ち、一言も発さず彼女を見下ろすカイル。


しばらくして。

リリアが、ふと息を吸った。


「……あ」


吐息のような、か細い声。だがその瞬間、部屋の空気は物理的な質量を伴って一変した。

リリアはゆっくりと顔を上げた。


「瘴気……」


四人の視線が、雷に打たれたように彼女へ集中する。


リリアは遠い空を見つめたまま、独り言のように続けた。

「遠くですけど……たしかに、あります。不快な、ざわざわした感じが……」


静かな、断言だった。

根拠も証拠もない。だが、この三日間、彼女が飲み込んできた「毒」の凄絶さを知ってしまった彼らにとって、それは何よりも確実な宣託だった。


「規模は」

イーサンが淡々と問う。

「……大きくはないと思います。でも、放っておけば根を張ってしまう。広がる前に、浄化した方が……」

そこでリリアは、重い鉛を動かすような動作で、寝台から這い出そうとした。

細い足が床に触れる、その寸前。


「やめろ」

低い声が落ちた。

カイルだった。

リリアの肩がぴたりと止まる。


「だが、カイル」

イーサンが静かに口を開く。

「聖女が察知した以上、実在する可能性は極めて高い。放置すれば汚染区域は拡大し、動員される兵の被害も比例して増えることになる」

「分かっている」

カイルは短く、突き放すように答えた。


彼の視線はリリアから微塵も逸らされない。カイルの瞳には、義務感とは異なる、もっと根源的な「拒絶」が宿っていた。


リリアは困ったように、眉を下げて笑った。

「大丈夫ですよ。カイルさん。さっきより、ずっと体も軽いですし……」


「三日だ」

カイルの声は、硬く、冷たかった。

「三日間、お前は死人のように眠り続けていた。その身体で再び遠征など、論外だ。騎士団が許さない」


「でも……誰かが行かないと、消えないんです」

沈黙が、リリアの言葉を肯定するように部屋に居座った。


瘴気は、鋼の剣では斬れない。強靭な意志を持つ騎士ですら、近づけば正気を失い、肉体を腐らせる。

この広大な帝国で、あの黒い泥を素手で掬い取れるのは――目の前の、聖女(リリア)だけなのだ。


誰もが、その残酷な事実に口を噤んだ。その沈黙の壁を、ゲルハルトが強引に蹴破った。


「……小規模なんだろ?」

ぶっきらぼうな問い。リリアは戸惑いながら頷く。

「はい。たぶん……」


「なら、今回は騎士団で様子を見る。いいな」

リリアが、驚いたように瞳を丸くした。

「え? でも、皆さんが行っても浄化は……」



「わかってる。偵察だけだ。境界線に杭を打って、これ以上広がらないように監視する。本当に出番が必要になったら、その時呼んでやるよ」

「でも、早いうちの方が私の負担も……」


「今のお前は『聖女』じゃねえ。ただの『患者』だ」

ゲルハルトは、有無を言わせぬ口調で言い切った。

「医者に言われただろ。しばらく安静にして、飯を食って寝てろってな。サボるのも仕事のうちだぜ」

そう言って意地悪そうに笑う。


リリアは言葉に詰まった。それでもなお、納得できないといった風に唇を噛む。

自分が行かなければ、誰かが傷つくかもしれない。その恐怖が、彼女を寝台に留めることを許さないのだ。


その時、ずっと沈黙を守っていたジークヴァルドが、重く、柔らかな口を開いた。

「今回は、騎士団の進言を容れよう」

「陛下……」

リリアが縋るように皇帝を呼ぶ。だが、ジークヴァルドの眼差しは、慈愛に満ちながらも、皇帝としての絶対的な「拒絶」を孕んでいた。


「聖女がこの国を救ってくれたのは、わずか三日前のことだ。リリア、少なくとも、目覚めて半日の娘を戦地へ送り出すほど、私は愚かな皇帝ではないつもりだよ」

彼はリリアの側に歩み寄り、シーツの上に投げ出された、まだ手袋で隠された手を、壊れ物を扱うように見つめた。

「君は、休んでいい。これは皇帝としての命令だ」


リリアは、しばらくの間、唇を震わせて黙っていた。

窓の外には、自分を呼ぶ黒い気配がある。けれど、この部屋の中にいる四人の男たちは、まるで彼女を守る盾のように、一歩も引かずに立ちはだかっている。

彼らの瞳にあるのは、崇拝ではない。

もっと人間臭い、必死で、見苦しいほどの「守護」の意志。


窓の外を見つめる。

瘴気の気配は、確かにある。

けれど――


リリアは、小さく長く、諦めたように息を吐いた。

「……分かりました。今日は、休みます」

ゲルハルトが、目に見えて肩の力を抜いた。イーサンは何も言わず、眼鏡の奥の鋭い視線をわずかに和らげる。

そして、カイルは――。

何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じた。



もし、彼女がもっと強く主張していたら。

もし、陛下に背いてでも行くと言い張っていたら。

自分は、彼女を力ずくで組み伏せてでも、止めることができただろうか。

答えは出ない。だが、カイルの胸には、氷のような決意だけがくさびとなって打ち込まれていた。


あの山で、すべてを飲み込み、力なく微笑んだ彼女の姿。

カイルは、眠りに落ちようとするリリアの傍らで、ただ静かに、彼女の呼吸を数え続けていた。

それは、鋼の騎士が初めて抱いた感情だった。


規律なき、執着。

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