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28 休憩

王城の朝は、残酷なほどに静穏だった。

重厚な天鵞絨ビロードのカーテンの隙間から、一筋の淡い光が差し込み、宙に舞う微細な埃を白く照らし出している。

遠くで響く小鳥のさえずりが、この部屋が「死」ではなく「生」の場所であることを辛うじて繋ぎ止めていた。


寝台の上で、リリアは深い眠りに落ちたままだった。

二日。そして、三日。

その間、彼女は一度もその瞳を開くことはなかった。


宮廷医の部屋を包む空気は、常に薄氷を踏むような緊張感に満ちている。医師も侍女も、まるで彼女の眠りを守る結界を壊さぬよう、声を潜め、気配を殺して動いていた。


寝台の脇には、交代で近衛騎士が直立している。

今、そこにいたのはカイルだった。

鎧を脱ぎ捨てた黒い軍服姿のまま、彼は壁際に背を預け、微動だにせず寝台を見守っていた。


任務だ。王命による、聖女の護衛と監視。それ以上でも、それ以下でもない。

そう心に鋼の楔を打ち込みながらも、カイルの視線は、吸い寄せられるようにリリアの顔へと向かう。


白磁のように青白い肌。

シーツの海に沈む、折れてしまいそうなほど細い肩。

呼吸は浅く、けれど一定の規則性を持って、彼女の胸を小さく上下させていた。

ただ眠っているだけのように見える。


だが、カイルの胸の奥には、鉛を飲み込んだような重苦しさが居座っていた。

あの山での光景が、網膜に焼き付いて離れない。

逃げ惑う兵たちとは逆に、どす黒い瘴気の渦へと、迷いなく歩を進めていった小さな背中。

すべてが終わった後、振り返って見せた、あのあまりに穏やかな笑顔。


『……終わりましたよ』

その掠れた声。そして――。


意識を失った彼女を抱き起こしたとき、捲れ上がった袖口から一瞬だけ覗いた、あの「黒い影」。


(……やはり、気のせいなどではなかったのだ)


カイルは、肺に溜まった澱を吐き出すように、ゆっくりと息を漏らした。


そのときだった。

衣擦れの、微かな音。

カイルの視線が、鋭く寝台へと戻る。

リリアの、白く細い指先が、ほんのわずかに震えるように動いた。


「……」

一瞬、カイルの息が止まった。

長い睫毛に縁取られたまぶたが、震え、躊躇うように持ち上がる。

ゆっくりと。光を拒むように瞬きを繰り返し、リリアの瞳がその色彩を露わにした。

まだ焦点は合っていない。ぼんやりと天井の彫刻を見つめていた視線が、彷徨うように動き――やがて、壁際に立つカイルとぶつかった。


数秒の、濃密な沈黙。

それから。


リリアの唇が、かすかに、本当に微かに弧を描いた。

弱々しく、けれど冬の終わりに咲く花のような、穏やかな笑顔だった。

「……カイル、さん」


声は、驚くほど掠れ、消え入りそうだった。

カイルは吸い寄せられるように一歩、寝台へと近づいた。


「聖女。……目が覚めたか」

短い言葉。それしか出てこなかった。

だが、胸の奥を塞いでいた重たい石が、彼女のその一言で、わずかに動かされた気がした。


リリアはゆっくりと瞬きを繰り返し、自分の置かれた状況を確かめるように、慎重に周囲を見渡した。

「……ここ、王城……ですか?」

「そうだ。宮廷医の部屋だ。三日、眠っていた」

「そう、ですか……。三日も……」

小さく安堵の吐息をつく。それから、リリアはほんの少しだけ、苦痛を思い出したかのように眉を寄せた。

「私……」

記憶の糸を、手繰り寄せる。

北東の山。天を覆うほどの、巨大な瘴気。

手を突き立てた瞬間の、全身を焼き尽くすような激痛。

喉を焼き、肺を潰し、胃の腑へと力任せに流し込んだ、あのどろりとした感覚。


そして――。

「……あ」

目を開く。カイルを、真っ直ぐに見つめる。

その表情には、自分の身体に起きた「異変」への不安も、あの死の淵を見た恐怖もなかった。

ただ、何よりも優先すべきことを確認するように、震える声で聞いた。


「浄化は……」

リリアの喉が、ひくりと動いた。

「成功、しましたか? 皆さん、無事……でしたか?」


カイルの心臓が、鐘を打たれたように大きく、激しく鳴った。

数秒。喉の奥が熱くなり、言葉がすぐには出てこない。


ようやく、絞り出すような低い声で答えた。

「……ああ。成功した。……完璧だった」


短い、肯定。


「一人の死者も出さず、山は本来の姿を取り戻した。……お前のおかげだ」

リリアの肩から、ふっと力が抜けた。

本当に、心の底から救われたように、小さく長い息を吐く。

「よかった……。本当に、よかった……」

それだけ言うと、彼女は満足げに目を閉じた。


自分の務めを果たせたという安心感だけが、彼女を満たしていた。

そして、再びゆっくりと目を開くと、当然のように次の「役割」を口にした。


「……次の、瘴気は」

その澄んだ瞳が、カイルを射抜く。

「……発生して、いますか?」

部屋の空気が、一瞬で凍りついた。


カイルは答えない。いや、答える術を持たなかった。

「……?」

リリアは不思議そうに瞬きをし、少しだけ困ったように笑った。

「あの、大丈夫です。少し休めば、まだ体は動くと思いますから」


そして。

自分の命を削った自覚など一欠片もなく、ただ申し訳なさそうに、付け加えた。

「……三日も寝てしまって。皆さんに、余計な心配をかけちゃいましたよね。ごめんなさい」


カイルは、唇を噛み締めたまま、何も言えなかった。


この女は。

自分の身体が、あんなにも無残に黒く焼かれていることすら言わない。

あの悍ましい毒を、一人で飲み込んだことへの恐怖も語らない。


何も。何一つ。

ただ、自分が「盾」として役に立っているか。それだけを、ひたむきに案じている。


カイルの胸の奥で、何かが悲鳴をあげて軋んだ。

だが、彼は表情を崩さない。それが、彼にできる唯一の「騎士」としての矜持だったからだ。


「……今は休め」

低く、断じさせるように言う。

「話は、十分に体力を戻してからだ」


リリアは少しだけ考え、それからいつものように、素直に頷いた。

「……はい。そうですね。……すみません」

そしてまた、ゆっくりと重い瞼を閉じる。今度は深い眠りではなく、ただ身体を休めるための、穏やかな休息。


カイルは寝台の横に立ったまま、彫像のように動かなかった。


しばらくして、静かな寝息が部屋を満たし始める。

その、あまりにも小さく、脆い身体を見下ろしながら、カイルは思わずにはいられなかった。


この女は。

自分が、どれほどの呪いをその身に背負わされているのか、まだ何一つ知らない。


そして、帝国という巨大な機構もまた。

救いのために、彼女に何を強いてきたのか。

その罪の重さを、ようやく知り始めたところだった。

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