27 もう一品
宮廷医の部屋を出た直後、ジークヴァルドの声は低く、そして凍てついていた。
「……会議室へ」
その一言に、誰も言葉を返さなかった。静まり返った深夜の回廊を、四人の男たちが歩く。
昼間の柔らかな光に満ちていた王城は、今や冷酷な石の檻へと姿を変えていた。揺れる松明の火が、壁に這う彼らの影を、化け物のように長く、歪に引き伸ばしている。
重厚な扉が閉じられ、密室には皇帝、イーサン、ゲルハルト、カイルだけが残された。
卓を囲む彼らの間に、刺すような沈黙が流れる。
沈黙を最初に切り裂いたのは、イーサンの乾いた声だった。
「……報告を整理します」
机の上に置かれた書類が、微かな音を立てる。
「聖女リリアは現在昏睡状態。心肺機能に異常はなく、生命の危険はありません」
淡々とした、報告。
「しかし、両腕に大規模な瘴気の蓄積を確認。宮廷医の見解では――」
イーサンは一度言葉を区切り、眼鏡の奥の瞳を冷徹に細めた。
「聖女は瘴気を浄化しているのではない。自身の肉体そのものを『ゴミ箱』とし、瘴気を体内に取り込んでいる可能性が極めて高い」
再び、沈黙。
その静寂を、ゲルハルトの荒々しい舌打ちが破った。
「……ふざけんな!」
固く握られた拳が机を叩き、鈍い音が響き渡る。
「じゃあ何だ。あいつは今まで、一人で、あのドロドロしたもんを全部――」
言葉が詰まる。その先を言うのが、あまりに恐ろしかった。
ジークヴァルドが、掠れた声でその空白を埋める。
「……そうだ。自分の身体で、すべてを受け止めていたということだ」
反論する者はいない。カイルはただ、視線を床の一点に落としていた。
数時間前、北東の山間部で見せた彼女の姿が、鮮明に脳裏をよぎる。
あの禍々しい黒霧の中へ、迷いなく踏み込んでいった小さな背中。
すべてを平らげた後、死の淵に立っていながら、穏やかに微笑んで見せたあの顔。
『……終わりましたよ』
耳の奥に、その声が残っている。
(あの時すでに、あいつの腕は焼かれていたのか。……俺は、ただそれを見ていただけなのか)
カイルの拳が、革手袋が軋むほどに強く握り締められた。
イーサンが、感情を排したまま再び口を開く。
「過去数百年分の、歴代聖女の記録を照合しました。……瘴気を体内に取り込んだ事例は、一つとして存在しません」
「つまり、どういうことだ」
ゲルハルトが、獣のような低い声で問う。
「例外、ということです」
イーサンは、無慈悲な事実だけを並べる。
「あるいは――『異常』」
部屋の空気が、さらに一段と重く沈み込んだ。
ジークヴァルドはしばらく黙って目を閉じていた。やがて、自分自身を責めるような、ひどく掠れた呟きを漏らす。
「……彼女は、それを知っていたのだろうか」
誰も答えられなかった。
もし、自分の身体が壊れていくのを知っていたのなら。
それでも、あの少女は何も言わず、あのおどおどとした、けれど真っ直ぐな瞳のまま、瘴気へ手を伸ばし続けたことになる。
「だったら、今すぐ止めさせろよ……っ!」
ゲルハルトが顔をしかめ、皇帝を睨みつける。
「皇帝だろあんたは! あいつを、あんな風に壊れるまで使い潰すのが王の仕事かよ!」
ジークヴァルドは怒らなかった。ただ、静かに、そして残酷な現実を口にした。
「止めれば、瘴気は消えない。帝国は腐り、民は死ぬ」
その言葉は、何万もの命の重みを伴ってゲルハルトを押し潰した。
「……だからって、あいつを犠牲にすんのかよ……」
ゲルハルトは歯を食いしばり、悔しげに視線を逸らした。
「もう一つ、明白な事実があります」
イーサンが、追撃するように言葉を継ぐ。
「瘴気は、これからも発生し続けます。今回の規模を見る限り、次の災害が明日起きても不思議ではない」
「聖女はどうなる」
カイルが、初めて短く言葉を発した。
「リリアは、このままでは遠からず、限界を迎えるでしょう」
イーサンの言葉は、もはや宣告だった。救いのない、死刑宣告。
ジークヴァルドは、再び深く目を閉じた。
一国の主として。リリアという少女に、安らぎを与えたいと願った一人の男として。
長い葛藤の末、彼がゆっくりと開いた瞳には、王としての非情な決断が宿っていた。
「……ならば」
四人の男たちが、息を止めた。
「聖女を、もう一人呼ぶ」
空気が震えた。ゲルハルトが弾かれたように顔を上げる。
「……は? 正気かよ……」
「理にかなっています」
イーサンは即座に、計算し尽くされた結論を述べた。
「聖女が二人いれば、一回あたりの浄化の負担は分散される。リリアが限界を迎えるまでの時間を稼ぐことができる」
「ふざけんな!!」
ゲルハルトが立ち上がる。
「もう一人、あいつと同じ『生贄』を用意するってのか!? どの面下げて、別の世界から娘をさらってくるつもりだ!」
イーサンは、揺らぎのない視線でゲルハルトを見据えた。
「帝国を、守るためです。一人の少女の腕が黒く染まるのを惜しんで、帝国全土を黒く染めるわけにはいかない」
「……分かっている」
ジークヴァルドの声は、低く、重かった。
「だが、今のままでは……リリアは死ぬ」
皇帝は、血が滲むほどに机の上で拳を握り締めた。
「そして。リリアを失えば、帝国もまた滅びる」
反論できる者は、もういなかった。
ジークヴァルドは、震える声を押し殺し、皇帝として、冷徹に命じた。
「準備を進めろ。……第二の聖女、召喚の儀を執り行う」
夜の王城に、そのあまりに重く、残酷な決断だけが落ちた。
眠り続けるリリアが、自分を救うために誰かが身代わりになることを知れば、どれほど嘆くだろうか。
そんな感傷すら、闇の中へと消えていった。




