26 器
カイルが駆け寄ったとき、リリアの身体はすでに崩れ落ちていた。
白く清らかな聖装が、音もなく土の上に広がる。その光景は、まるで折れた百合の花のようだった。
「聖女!」
膝をつき、彼女の身体を抱き起こす。
……驚くほど、軽かった。
鎧を纏ったカイルの腕の中で、彼女の身体は中身の抜けた人形のように、力がなく、あまりに脆い。
「聖女、しっかりしろ」
呼びかけても、返事はない。
ただ、浅く、かすかな呼吸だけが、彼女がまだこちらの世界に踏みとどまっていることを告げていた。
背後で、兵たちがざわめき始める。
「瘴気は……消えている」
「本当に……あの一帯を埋め尽くしていた瘴気が、全部、浄化されたのか……?」
さっきまで山全体を覆い尽くし、世界を腐らせようとしていた黒い濁流は、跡形もなく消え去っていた。空は久しく見なかった澄んだ青を取り戻し、枯れ果てていた木々にさえ、微かな風が通っている。
完璧な、勝利。
だが、カイルの胸には、勝利の実感など一欠片もなかった。あるのは、説明のつかない、胸を締め付けるような不穏な予感だけだ。
「担架を持ってこい」
低く命じる。
「すぐ城へ戻る。急げ」
兵たちが慌ただしく動き出した。カイルはリリアの顔を見下ろした。
いつもと同じ、穏やかな表情。まるで、心地よい夢を見ているだけのようだ。
だが――。
その肌は、ひどく冷たかった。陽光を浴びているはずなのに、死人のように、凍えている。
「……聖女」
呼びかけても、やはり反応はない。
そのときだった。担ぎ上げようとした拍子に、リリアの袖口がわずかにずれた。
ほんの一瞬。
黒いものが、視界の端をかすめた気がした。
「……?」
カイルの眉が、わずかに動く。
だが、次の瞬間には布が元に戻り、それは見えなくなっていた。
見間違いか、あるいは気のせいか――。そう判断するには、あまりにも一瞬のできごとだった。
「団長、準備が整いました」
兵が声をかける。カイルは視線を戻し、短く頷いた。
「城へ戻る。……全速力だ」
リリアは担架に乗せられ、近衛騎士たちに厳重に囲まれて山を下りていく。その間も、彼女は一度も目を覚まさなかった。
そしてこのとき、誰一人として知らなかったのだ。
帝国を覆っていたあの未曾有の瘴気を――。
たった一人の、この小さな少女が、
自らの身体ですべて喰らい尽くしていたことを。
王城に戻った頃には、すでに夜が帳を下ろしていた。
松明の火が不安げに揺れる回廊を、担架が急ぎ足で運ばれていく。
重い扉が開かれ、リリアは宮廷医の部屋へと運び込まれた。
「こちらへ。寝台に横たえて」
年老いた宮廷医が、短く指示を出す。
騎士たちは慎重に、壊れ物を扱うようにリリアを白い寝台へ横たえた。
白いシーツの上に広がるその姿は、驚くほど静かだった。まるで、ただ眠っているだけのように。
だが、部屋に満ちる空気は、鉛のように重い。
皇帝ジークヴァルド、補佐官イーサン、両翼のゲルハルト、そしてカイル。帝国の重鎮たちが、声もなく寝台を取り囲んでいた。
「容体は」
ジークヴァルドが、低く問う。
宮廷医はリリアの瞳を開き、呼吸を確かめ、震える手で脈を取った。
「……命に別状はありません。心音もしっかりしております」
わずかに、安堵の空気が流れる。しかし、医師の眉間の皺は消えなかった。
「ただ……」
言葉を濁す。
「ただ、なんだ」
皇帝の声が、静かに、だが威圧感を持って促した。
「非常に奇妙な状態です。極度に衰弱しているようでいて、生命力そのものは、むしろ以前より強くなっている」
宮廷医は首を傾げた。
「これほどの、国を揺るがす大規模な浄化を行った直後とは思えません。まるで、どこかから膨大なエネルギーを供給されたかのような……」
「まあ、あいつは元々変だからな」
ゲルハルトが腕を組み、鼻を鳴らす。
「ゲルハルト、黙っていろ」
イーサンが低くたしなめる。
宮廷医はさらに、リリアの手を取った。
召還されて間もない頃から、彼女が肌身離さず身につけている、白い絹の手袋。
「……これは?」
「聖女が最近、常に身につけているものです」
イーサンが答えた。
「浄化の際の装束だとか、神殿の儀礼に基づいたものだとか、そのような理由で」
「そうですか」
医師は小さく頷き、慎重に手袋の端をつまんだ。
「診察のため、外させていただきます」
誰も、止めなかった。
するり、と。
白い布が、寝台の上に滑り落ちた。
その瞬間だった。
部屋の空気が、物理的な衝撃を伴って凍りついた。
「…………これは」
宮廷医の声が、恐怖に掠れる。
露わになったのは、
人の肌ではなかった。
指先から、手の甲、手首。
そこにあるのは、皮膚そのものが焼け焦げたような、あるいは内側から炭化したような――真っ黒な腕。
煤のような、ドロリとした色が、皮膚の奥底から染み出している。
「……なんだ、これは」
ゲルハルトが低く呟いた。
宮廷医は震える手でリリアの黒く染まった腕をさする。
「瘴気かもしれません……」
だがそれは、彼が知る瘴気汚染とは、決定的に違っていた。腐敗も、壊死もない。
ただ、黒い。
まるで。
身体の中に瘴気を閉じ込めているような、悍ましい色だった。
イーサンが眼鏡の奥で、氷のような目を細めた。
「……カイル」
「なんだ」
「遠征の際、何か異常はなかったか。彼女の様子に、不審な点は」
カイルは短く答えた。
「……ない。聖女は、完璧に浄化を遂行した」
ほんの一瞬だけ、思い出す。
山で彼女を抱き上げたとき、袖口から見えたあの黒い影。見間違いだと思いたかった、あの真実。
(……俺は、気づいていたのに。見過ごしたのか)
カイルの心臓が、嫌な拍動を刻む。
「浄化は?」
「完了した」
「規模は」
「……これまでで、最大だ」
沈黙。
誰もが、同じ、あまりにもおぞましい結論へ近づき始めていた。
ジークヴァルドが、ゆっくりと口を開く。
「……つまり」
その声音は、皇帝としての威厳すら失わせるほど、恐ろしいほど静かだった。
「この腕は」
皇帝の冷徹な視線が、眠るリリアの黒き腕に落ちる。
「瘴気を、その身で受け止めた結果、ということか」
宮廷医が、青ざめた顔で絶句した。
「もし……もし、それが事実だとすれば……」
声が、ガチガチと震える。
「聖女様は……瘴気を『消して』いるのではなく、ご自身の身体に『溜め込んで』おられる。……身体そのものが、瘴気の『器』と化しているのです」
誰も、その先を言えなかった。
歴代の聖女が祈りと共に光で散らしてきた瘴気を。
この二十歳そこそこの少女は、自らの血肉を犠牲にして、すべて喰らい尽くしていた。
部屋の空気が、救いようのない絶望へと沈んでいく。
その中心で。
リリアは、自らの真実が暴かれたことも知らないまま。
ただ静かに、真っ黒に染まった腕を晒して、眠り続けていた。




