25 満腹
北東の山間部。
そこは、もはや神の加護すら届かぬ、大地の腐った傷口だった。
立ち込める瘴気は、かつて対峙したどの「塊」とも比較にならない。山一つを丸ごと呑み込み、空をどす黒く塗り潰すその規模は、文字通りの絶望そのものだった。
「……っ」
リリアは、肘の上までを覆う絹の手袋を、引きちぎらんばかりの力で引き上げた。
あの日、手のひらに宿った消えない「煤」。
それを隠し通すため、彼女は「聖女の正装」という嘘を纏い、この地獄へと足を踏み入れたのだ。
一歩、前へ。
その瞬間、全身の血管に「沸騰した鉛」を流し込まれたかのような激痛が走った。
瘴気との距離が縮まるたび、肺の奥が焼け、内臓が腐食し、脳の皺を直接針で刺されるような凄絶な苦痛がリリアを貫く。
(……いやだ。いたい。……やりたくない、こわい……助けて……っ!)
内面では、のたうち回るほどの悲鳴を上げていた。
一刻も早くこの場から逃げ出したい。触れたくない。関わりたくない。
だが、その拷問のような苦痛の隙間から、それ以上に強烈な「何か」が鎌首をもたげた。
――オナカガ、スイタ。
リリアの心臓が、ドロリとした重苦しい拍動を刻む。
怖い。痛い。死ぬほど悍ましい。
なのに、目の前で世界を喰らっている瘴気の奔流が、今の彼女には「至高の糧」に見えていた。
(……タベモノ、ダカラ。……イタダキマス、シナキャ……)
生存本能が、理性を塗り潰していく。
リリアは、震える両手を瘴気の核心部へと、躊躇なく突き立てた。
「…………いただきます」
その呟きと共に、凄絶な「捕食」が始まった。
――ジュウ、と。
手のひらが瘴気に触れた瞬間、肉が内側から爆ぜるような衝撃が全身を駆け巡った。
焼ける。壊される。引き裂かれる。
逃げ場のない激痛に視界が白く染まり、それでも、リリアの手のひらは貪欲にその毒を「吸い上げ」始めた。
(……いたい、いたい! くるしい! )
(……でも、タベタイ……)
手のひらという「器」だけでは、この膨大なエネルギーを処理しきれない。
溢れ出した瘴気がリリアの身体を包み込み、逃げ場を失った彼女は、本能的にその口を大きく開いた。
「…………っ、は、ぁ…………!」
呼吸と共に、どす黒い澱みを肺の奥深くへと、力任せに吸い込んでいく。
ねっとりと糸を引くような瘴気が、リリアの喉を焼き、食道を通り、内臓を一つずつ腐らせながら無理やり胃へと収まっていく。
ゴクン、と生々しい嚥下の音が、リリアの内側だけで響いた。
肺胞の一つ一つが瘴気に染まり、酸素ではなく「死」を全身に巡らせる。
壊され、焼き尽くされながら、それ以上に巨大な「力」に満たされていく悍ましい充足感。
世界を腐らせる絶望を、一人の女が「汚物」ごと飲み干していく。
やがて.山を覆っていた巨大な瘴気が、最後の一片までリリアの内に吸い込まれた。
静寂が戻った世界で、リリアは満足げな、しかし熱を帯びた吐息を漏らす。
(……ごちそう、さま……しなきゃ……)
ぐるぐると回る視界を下にむけ、その中に自分の腕を捉えたリリア。
思考が、氷りついた。
激しい衝撃で、絹の手袋の裾が捲れ上がっている。
そこから覗くのは、自分の肌色ではない。
指先から、肘の裏、そして二の腕の奥まで――。
まるで、皮膚そのものが「黒い煤」で編み直されたかのように、どす黒く変色した自分の腕だった。
リリアは息を飲んだ。
背後に控えるカイルたち。彼らには、この地獄も、この醜い変異も、何一つ見えてはいない。
彼らの目に映っているのは、ただ静かに祈りを捧げ、奇跡を成し遂げた聖女の背中だけ。
リリアは、弾かれたように袖を引いて黒い腕を隠すと、完璧な聖女の「仮面」を貼り付けて振り返った。
「……終わりました」
にこやかに。何事もなかったかのように。
満足感すら滲ませた、完璧な微笑。
その瞬間。
視界が、ぐにゃりと反転した。
(……あ)
音が消える。
全身の筋肉が、まるで糸の切れた人形のように、一気にその役目を放棄した。
極限まで吸い込まれた「死」が、ついに彼女の器を、内側から完全に粉砕したのだ。
「聖女!」
カイルの声が、遠く、泥の中に沈んでいくように聞こえた。
リリアの意識は、底の見えない真っ黒な静寂へと、急速に、深く沈み込んでいった。




