24 焦げつき
重厚な扉が、静寂を切り裂くような勢いで開かれた。
「陛下! 緊急のご報告が――!」
執務室へ駆け込んできた伝令の兵士は、肩で荒い息をつき、その場に崩れ落ちそうなほど疲弊していた。
報告を届けるその顔は、隠しようのない恐怖にどす黒く引き攣っている。
「……どうした。騒々しいな」
ジークヴァルドは書類に落としていた視線をゆっくりと上げた。
声音は凪のように穏やかだが、その一言で室内の温度が数度下がったような錯覚が広がる。
「北東の山間部を巡察していた部隊が……異様な土地を発見いたしました。空気が鉛のように淀み、植物は一瞬で枯れ果て……まるで、大地そのものが生きたまま腐敗しているかのような有様だと」
兵士はこみ上げる吐き気を堪えるように、言葉を絞り出した。
「報告によれば――間違いなく、瘴気とのことです。それも、かつてない規模の」
その瞬間。
室内の空気が、重圧を伴って凍りついた。
「……瘴気、だと?」
ジークヴァルドが、ゆっくりと言葉を咀嚼するように繰り返す。
その鋭い視線が、傍らに立つ補佐官イーサンへと向けられた。
「聖女からの報告は」
「……一切、受けておりません」
イーサンの答えは、剃刀のように短く鋭かった。
これまでの瘴気発生は、そのすべてをリリアが事前に察知し、報告していた。
それはいつしか、この帝国の安全保障の柱となっていたのだ。
「……妙だな」
ジークヴァルドは静かに呟いた。
穏やかな声とは裏腹に、その瞳には獲物を射抜く猛禽のような光が宿っている。
「聖女は、千里の先の瘴気すら感じ取ると聞いていたんだが」
一拍の間。
「……イーサン」
「はっ」
「行こう。彼女に直接、確認しよう」
ジークヴァルドは椅子から立ち上がった。
その動きには一切の迷いがない。
皇帝の決断は、常に迅速だった。
書庫の重い扉が開くと、古い紙とインクの匂いが溢れ出した。
迷宮のように積み上げられた文献の山。
その最奥に、小さな背中が見える。
「……リリア」
鈴の音のように柔らかな声が、静かな書庫に響いた。
リリアは弾かれたように肩を震わせ、振り返る。
「へ、陛下……っ」
見開かれた瞳。
浅い呼吸。
そして、一目でわかるほどに青ざめた顔色。
ジークヴァルドの背後には、静かな観察眼を向けるイーサンと、彫像のように無言で控えるカイルの姿があった。
「少し、聞きたいことがあってね」
ジークヴァルドはゆっくり歩み寄る。
その声音は柔らかい。だが空気は逃げ場のない檻のように張り詰めていく。
「北東の山間部で、大規模な瘴気が確認されたそうだ」
リリアの心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
「君は……それを感じなかったのかい?」
責める声ではない。
むしろ、案じるような響き。
だからこそ、その問いから逃げることはできなかった。
「……っ」
喉が砂漠のように乾く。
言えるはずがない。
怖かったから、黙っていました。
あの内側から焼き潰される苦しみが怖くて、現実から逃げていました――などと。
聖女という偶像を背負った今、そんな言葉は許されない。
(言えない……言えるはずがない……)
リリアはドレスの裾を握りしめるように拳を固めた。
そして、震える唇を無理やり動かし――
「……感じませんでした」
空虚な嘘が、ぽろりと落ちた。
ほんの一瞬。
イーサンの眼鏡の奥の瞳が、わずかに細められる。
だがリリアは、それを打ち消すように慌てて言葉を重ねた。
「で、ですが! 今すぐ向かいます!
準備をして、確認して……私が浄化します!」
言った瞬間。
(……しまった)
と、思った。
恐怖から逃げるための嘘が、
自分を地獄の最前線へ押し出してしまった。
(……また行かなきゃ……)
胸の奥に、鉛のような絶望が沈む。
ジークヴァルドは、しばらくリリアを見つめていた。
震える指先。
怯えた瞳。
浅い呼吸。
すべてを見たうえで。
それでも、彼は追及しなかった。
「……そうか」
穏やかな声だった。
「ならば、頼むよ」
それだけを告げると、ジークヴァルドは背後へ視線を向けた。
「イーサン。遠征の準備を」
「即座に神殿と各部署へ指示を出します」
イーサンは静かに頷き、隣の騎士へ命じる。
「カイル。北東山間部への即時遠征を。一刻を争います。出発体制を整えてください」
「了解した」
短く、鉄のような返答。
カイルは一度だけリリアを見た。
射抜くような視線。
そして何も言わず、踵を返した。
書庫の空気が、重く沈む。
リリアは立ち尽くしたまま動けなかった。
自分の言葉で。
自分の虚勢で。
一番恐れていた地獄への道を、自分自身で開いてしまったのだ。
リリアはそっと両手を胸元で握りしめる。
厚手の手袋越しでも、はっきり分かる。
手のひらの奥で――
決して落ちない 黒い煤 が、心臓の鼓動に合わせるように、じわり、と広がっていく感覚を。




