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23 食傷

平穏が戻るかと思われた帝都だったが、現実は無慈悲だった。各地から「瘴気発生」の報告が、雨後のたけのこのように相次いだのだ。


それも一件や二件ではない。皇宮の書庫に残るどの時代の記録と照らし合わせても、明らかに、異常な頻度だった。


「……こちらも、ですか」

イーサンが淡々と事務的な報告書を読み上げる横で、リリアは小さく息を呑んだ。


のどかな村の境界。賑わう街道のすぐそば。

人々の穏やかな営みのすぐ隣に、毒々しい瘴気は音もなく這い寄っていた。


放置すれば、確実に死者が出る。


だから、迷う余地などなかった。


――聖女リリアが、行くしかない。


それから、小規模な瘴気の浄化を何度も重ねた。

一つ一つの規模は小さい。最初に対峙した、あの世界を歪めるほどの巨塊に比べれば、取るに足らないものに見えるだろう。


けれど。


(……同じだ。全部、同じ……)


リリアは、馬車のシートの上で震える指先をぎゅっと握りしめた。

近づくだけで、無数の虫が全身を這い回るような粘りつく不快感。

触れた瞬間に手のひらから流れ込んでくる、あの内臓を焼き潰すような凄絶な苦痛。


大きさなど、関係なかった。

痛いものは、痛い。苦しいものは、耐え難いほどに、苦しい。

回数を重ねるほどに、恐怖は薄れるどころか、逆に鋭利な輪郭を持ち始めていた。


(……また、あれをやらなきゃいけないの?)

胸の奥が、万力で締めつけられるように苦しくなる。

逃げられないことも、自分にしかこの惨状を止められないことも分かっている。

それでも。


(……こわい。嫌だ。助けて……)


心の中で叫ぶその幼い感情だけは、どれほど「聖女」として振る舞おうとも、消えてはくれなかった。



ある日、リリアは逃げ込むように書庫へ向かった。

すがるような思いで手に取ったのは、古びた装丁の一冊。


歴代の“聖女”に関する、禁忌の記録。


通常の蔵書とは違い、表紙には淡く光る魔力の封印が施されている。だが、リリアが触れた瞬間、それは主を認めたように何の抵抗もなく解けた。


――聖女にしか開くことのできない、真実の本。


期待に胸を躍らせ、ページをめくる。

そこには、過去の聖女たちの浄化の儀式が克明に記されていた。

だが。


「……え……?」

思わず、乾いた声が漏れた。

そこに書かれていたのは、リリアの知る地獄とは似ても似つかない「お伽話」だった。


『聖女が祈りを捧げれば、天より光が降り注ぐ。

 光が満ちれば、瘴気は春の雪のように跡形もなく消え去る。

 人々の歓喜の声。聖女の慈愛に満ちた微笑み――』


ただ、それだけ。


引き裂かれるような苦しみも、焼けるような痛みも。

何一つ、一行たりとも書かれていない。


(……うそ。そんなはず、ない……)


ページをめくる手が、激しく震える。

別の記録。さらに数百年前の古い記述。

だが、どれも同じだった。

まるで、最初から痛みなど存在しなかったかのように。

“浄化”は一貫して、穏やかで、神聖で、美しい奇跡としてのみ描かれている。


(……じゃあ、なんで。なんで私だけが、あんな思いをしてるの?)


自分だけが、間違っているのか。

自分は、聖女などという高潔な存在ではなく、ただ瘴気を無理やり体内に流し込む「汚物入れ」に過ぎないのではないか。


ふと、右の手のひらに違和感を覚えた。

吸い寄せられるように視線を落とす。

「…………」


あの日、洗っても落ちなかった煤。

それが――うっすらと、広がっていた。

ほんの、わずかに。だが確実に、指の付け根まで黒ずんでいる。


息が止まった。


慌てて、聖衣の袖で何度も強く擦る。

洗面台へ走り、皮膚が剥けるほど水で洗う。

それでも。

煤は落ちない。まるで、内側から毒が滲み出ているかのように。


(……なに、これ…。なんなの…!?)

心臓が、嫌な早鐘を打ち鳴らす。

その時だった。


――ぞくり、と。


背骨を下から上へ、氷の指で撫でられるような強烈な感覚。

これまで感じたどの小規模な瘴気よりも、はっきりとした巨大な“気配”。


「……っ!」

リリアは反射的に顔を上げた。

帝都の遥か外。人の気配が途絶えた絶望の方向。


(……大きい。前のに、匹敵する……ううん、それ以上……?)


嫌でも分かってしまう。これは、放っておいていい規模ではない。

今すぐにでも広がり、近隣の村を飲み込み、人々を腐らせていくだろう。

「…………」

喉が、砂を噛んだように乾く。

今すぐ報告しなければならない。皇帝に、あるいはカイルに告げて、即座に遠征の準備を。


(……いやだ)

けれど、足が動かなかった。


あの苦しみが、脳裏に鮮明な色彩を持って蘇る。

内側から焼かれ、壊され、魂を削り取られるあの感覚。

それでも、誰にも気づかれないまま、平然と立ち続けなければならない孤独な地獄。


(……また、あれを耐えろっていうの? 無理……もう、無理……)


気配は、確実に広がっている。

時間がないことも。自分が行かなければならないことも。


リリアには、誰よりも「分かって」いた。

それでも。

彼女は、震える唇を固く噛みしめたまま。


――何も、言えなかった。


誰にも告げないまま、リリアはただ一人、自室の暗がりに恐怖を抱え込んだ。


迫り来る、世界を食いつぶす巨大な災厄と。

そして、自分自身の身体を内側から蝕み始めた「異変」から、必死に目を逸らすように。

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