表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/59

22 腹ごしらえ

昼下がりの王城、その回廊は柔らかな陽光に満たされていた。

磨き上げられた大理石の床が窓からの光を反射し、静謐(せいひつ)な空気を運んでいる。

遠くで衛兵が交代する鎧の擦れる音だけが、規則正しく、心地よいリズムを刻んでいた。


カイルはその回廊を、一定の速度で歩いていた。

彼の任務は至って単純だ。書庫に篭っている聖女――リリアの警護。

適切な距離を取り、視界に収め、万が一の異常があれば即座に排除する。鋼の規律に従う彼にとって、それは息をするのと同じくらい、当たり前のルーティンだ。


書庫の奥、リリアはいつものように巨大な地図と格闘していた。

周囲にはうずたかく文献が積み上げられ、彼女の細い指先はインクで薄汚れている。瘴気の発生地点を書き写し、何度も線を引き直すその横顔は、悲壮なほどに真剣だった。


「……おい。そこ、間違ってるぞ」

不意に、棚の影から野太い声が落ちた。


「っ……!」

リリアがびくりと肩を跳ねさせて見上げると、そこには書棚にだらしなく片腕をつき、ニヤニヤと笑うゲルハルトがいた。本来なら巡察に出ているはずの時間だが、彼は明らかな「サボり」を決め込んでここへ涼みに来たらしい。


「ゲルハルトさん……。びっくりさせないでください」

「悪いな。だが、その川の筋が古い。百年くらい前の記録だと、そこはもっと西を流れてたんだよ」

「え? そうなんですか?」

「ああ。俺が騎士団に入ったばかりの頃、嫌ってほど地形を叩き込まされたからな。古い地図を持ってこい、そこに載ってるはずだ」

リリアは慌てて書棚から地方誌を引っ張り出し、ページをめくった。

「あ……本当だ!すごい…… 全然気づきませんでした……!」

ぱあっと、リリアの瞳に光が宿る。その無邪気なまでの感嘆に、ゲルハルトは鼻を鳴らした。


「俺がすごいんじゃねえよ。お前が変なこと調べすぎなんだ」

「変じゃないです。もし瘴気の発生に法則があれば、皆さんの負担が減るかもしれないから」


「あるか? 法則なんて」

「……ないかも、しれません」

「だろうな」

ゲルハルトは愉快そうに笑った。そのやり取りを、少し離れた柱の陰から、カイルは静かに見守っていた。

任務上、注意を払う必要のない、他愛もない会話。


その時、書庫の重厚な扉が静かに開いた。


「やあ。随分と賑やかだね」

穏やかな、しかし場を支配する絶対的な声音。ジークヴァルドだった。

その後ろには、眼鏡の奥から測量士のような視線を向けるイーサンが控えている。


「へ、陛下……!」

リリアは弾かれたように立ち上がり、慌てて姿勢を正した。

「そんなに慌てなくていい。今日は少し、調べたい書類があっただけだよ」


ジークヴァルドは机の上の地図に目を落とした。「また瘴気の調査かい?」

「はい……。まだ、何も分かっていないんですけど」

「それだけの膨大な資料を短期間で整理し、相関関係を導き出そうとしている。それだけでも十分な功績ですよ。陛下」

イーサンが、感情を排した声で補足する。

「そう……でしょうか」

「ええ。基礎教育すら受けていない身で、これだけの記述を読み解くのは並大抵のことではありません」

淡々とした口調だが、そこには確かな「評価」が宿っていた。

ジークヴァルドは、リリアが書き殴った紙束を愛おしそうに見つめた。


「随分と勉強しているようだね、リリア」

「……時間があるので。それに、私には知らないことが多すぎるから」

リリアの自虐的な言葉に、皇帝は静かに、そして深く頷いた。


「それは、決して悪いことではないよ。自分が『知らない』と自覚している人間こそが、真に強いのだから。……おや?」


ジークヴァルドの視線が、地図の隅に置かれた別の本に移った。

「こっちは……帝国料理大全かな?」

「こいつ、飯の本も読み込んでるぞ!」

ゲルハルトが横から余計な茶々を入れる。

「ゲルハルトさんっ……!」

「事実だろ。こないだなんか、肉のページのところで涎を――」

「してませんっ!」

真っ赤になって抗議するリリアを見て、イーサンがモノクルを押し上げた。


「『帝国料理大全』ですか。厨房の料理人が聞けば、きっと感涙するでしょう。あの本は、彼らにとっての誇りであり、聖典ですから」

「そうなんですか……? 挿絵がすごく綺麗だったので、つい……」

書庫の空気が、ふわりと和らいだ。ジークヴァルドの慈愛に満ちた眼差し、ゲルハルトの快活な笑い、イーサンの冷徹ながらも穏やかな肯定。

リリアは、自分がここにいてもいいのだという、仮初めの安心に包まれていた。


その時だった。

――ぐう。

静まり返った書庫に、あまりに無遠慮な音が響いた。


沈黙。


リリアは、顔から火が出るのではないかというほど真っ赤になり、絶望したように自らのお腹を押さえた。


「おいリリア……。お前、今……」

ゲルハルトが堪えきれずに吹き出した。

「す、すみませんっ! 忘れてくださいっ、今のは気のせいです!」


ジークヴァルドは、これ以上ないほど穏やかな笑みを浮かべた。

「おや、昼食はまだだったかな。ならば、すぐにでも行くといい。帝国を救う聖女が空腹で倒れたとなれば、皇帝としての私の面目が丸潰れだ」

「だな。腹が鳴る聖女なんて、前代未聞だぜ」

ゲルハルトが面白そうに頷く。

「すぐっ、すぐに戻ります!」


リリアは逃げるように資料をまとめ、バタバタと書庫を駆け出していった。

その背中を、残された四人の男たちは静かに見送った。

扉が閉まり、静寂が戻る。


「……変な聖女だよな」

ゲルハルトがぼそりと呟く。

「同感です。……ですが、これまでのどの候補者よりも、この国に馴染もうとしている」

イーサンが答えた。

ジークヴァルドは、リリアが残したインクの汚れを指でなぞり、小さく笑った。

「ああ。だが……悪くない。そう思わないか、カイル」

不意に問いを投げられたカイルは、一瞬だけ間を置いた。

そして、いつもの機械のような声音で答える。

「……任務に問題はありません」


だが。

カイルの視線は、いまだにリリアが走り去った扉の方を向いていた。

彼は自分でも気づいていなかった。

聖女が食事を終えて戻ってくるその場所を、自分が無意識のうちに――ずっと見つめ続けていたことに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ