22 腹ごしらえ
昼下がりの王城、その回廊は柔らかな陽光に満たされていた。
磨き上げられた大理石の床が窓からの光を反射し、静謐な空気を運んでいる。
遠くで衛兵が交代する鎧の擦れる音だけが、規則正しく、心地よいリズムを刻んでいた。
カイルはその回廊を、一定の速度で歩いていた。
彼の任務は至って単純だ。書庫に篭っている聖女――リリアの警護。
適切な距離を取り、視界に収め、万が一の異常があれば即座に排除する。鋼の規律に従う彼にとって、それは息をするのと同じくらい、当たり前のルーティンだ。
書庫の奥、リリアはいつものように巨大な地図と格闘していた。
周囲にはうずたかく文献が積み上げられ、彼女の細い指先はインクで薄汚れている。瘴気の発生地点を書き写し、何度も線を引き直すその横顔は、悲壮なほどに真剣だった。
「……おい。そこ、間違ってるぞ」
不意に、棚の影から野太い声が落ちた。
「っ……!」
リリアがびくりと肩を跳ねさせて見上げると、そこには書棚にだらしなく片腕をつき、ニヤニヤと笑うゲルハルトがいた。本来なら巡察に出ているはずの時間だが、彼は明らかな「サボり」を決め込んでここへ涼みに来たらしい。
「ゲルハルトさん……。びっくりさせないでください」
「悪いな。だが、その川の筋が古い。百年くらい前の記録だと、そこはもっと西を流れてたんだよ」
「え? そうなんですか?」
「ああ。俺が騎士団に入ったばかりの頃、嫌ってほど地形を叩き込まされたからな。古い地図を持ってこい、そこに載ってるはずだ」
リリアは慌てて書棚から地方誌を引っ張り出し、ページをめくった。
「あ……本当だ!すごい…… 全然気づきませんでした……!」
ぱあっと、リリアの瞳に光が宿る。その無邪気なまでの感嘆に、ゲルハルトは鼻を鳴らした。
「俺がすごいんじゃねえよ。お前が変なこと調べすぎなんだ」
「変じゃないです。もし瘴気の発生に法則があれば、皆さんの負担が減るかもしれないから」
「あるか? 法則なんて」
「……ないかも、しれません」
「だろうな」
ゲルハルトは愉快そうに笑った。そのやり取りを、少し離れた柱の陰から、カイルは静かに見守っていた。
任務上、注意を払う必要のない、他愛もない会話。
その時、書庫の重厚な扉が静かに開いた。
「やあ。随分と賑やかだね」
穏やかな、しかし場を支配する絶対的な声音。ジークヴァルドだった。
その後ろには、眼鏡の奥から測量士のような視線を向けるイーサンが控えている。
「へ、陛下……!」
リリアは弾かれたように立ち上がり、慌てて姿勢を正した。
「そんなに慌てなくていい。今日は少し、調べたい書類があっただけだよ」
ジークヴァルドは机の上の地図に目を落とした。「また瘴気の調査かい?」
「はい……。まだ、何も分かっていないんですけど」
「それだけの膨大な資料を短期間で整理し、相関関係を導き出そうとしている。それだけでも十分な功績ですよ。陛下」
イーサンが、感情を排した声で補足する。
「そう……でしょうか」
「ええ。基礎教育すら受けていない身で、これだけの記述を読み解くのは並大抵のことではありません」
淡々とした口調だが、そこには確かな「評価」が宿っていた。
ジークヴァルドは、リリアが書き殴った紙束を愛おしそうに見つめた。
「随分と勉強しているようだね、リリア」
「……時間があるので。それに、私には知らないことが多すぎるから」
リリアの自虐的な言葉に、皇帝は静かに、そして深く頷いた。
「それは、決して悪いことではないよ。自分が『知らない』と自覚している人間こそが、真に強いのだから。……おや?」
ジークヴァルドの視線が、地図の隅に置かれた別の本に移った。
「こっちは……帝国料理大全かな?」
「こいつ、飯の本も読み込んでるぞ!」
ゲルハルトが横から余計な茶々を入れる。
「ゲルハルトさんっ……!」
「事実だろ。こないだなんか、肉のページのところで涎を――」
「してませんっ!」
真っ赤になって抗議するリリアを見て、イーサンがモノクルを押し上げた。
「『帝国料理大全』ですか。厨房の料理人が聞けば、きっと感涙するでしょう。あの本は、彼らにとっての誇りであり、聖典ですから」
「そうなんですか……? 挿絵がすごく綺麗だったので、つい……」
書庫の空気が、ふわりと和らいだ。ジークヴァルドの慈愛に満ちた眼差し、ゲルハルトの快活な笑い、イーサンの冷徹ながらも穏やかな肯定。
リリアは、自分がここにいてもいいのだという、仮初めの安心に包まれていた。
その時だった。
――ぐう。
静まり返った書庫に、あまりに無遠慮な音が響いた。
沈黙。
リリアは、顔から火が出るのではないかというほど真っ赤になり、絶望したように自らのお腹を押さえた。
「おいリリア……。お前、今……」
ゲルハルトが堪えきれずに吹き出した。
「す、すみませんっ! 忘れてくださいっ、今のは気のせいです!」
ジークヴァルドは、これ以上ないほど穏やかな笑みを浮かべた。
「おや、昼食はまだだったかな。ならば、すぐにでも行くといい。帝国を救う聖女が空腹で倒れたとなれば、皇帝としての私の面目が丸潰れだ」
「だな。腹が鳴る聖女なんて、前代未聞だぜ」
ゲルハルトが面白そうに頷く。
「すぐっ、すぐに戻ります!」
リリアは逃げるように資料をまとめ、バタバタと書庫を駆け出していった。
その背中を、残された四人の男たちは静かに見送った。
扉が閉まり、静寂が戻る。
「……変な聖女だよな」
ゲルハルトがぼそりと呟く。
「同感です。……ですが、これまでのどの候補者よりも、この国に馴染もうとしている」
イーサンが答えた。
ジークヴァルドは、リリアが残したインクの汚れを指でなぞり、小さく笑った。
「ああ。だが……悪くない。そう思わないか、カイル」
不意に問いを投げられたカイルは、一瞬だけ間を置いた。
そして、いつもの機械のような声音で答える。
「……任務に問題はありません」
だが。
カイルの視線は、いまだにリリアが走り去った扉の方を向いていた。
彼は自分でも気づいていなかった。
聖女が食事を終えて戻ってくるその場所を、自分が無意識のうちに――ずっと見つめ続けていたことに。




