21 注文
王城の中庭は、春の午後の柔らかな陽光に満たされていた。白亜の噴水が刻む規則正しい水音と、遠くで庭師が薔薇の枝を整える微かな音。
平和そのものの景色の中に、場違いなほど必死な、ぎこちない動きがあった。
リリアは石造りのベンチに浅く腰掛け、指先に全神経を集中させていた。
細い麻の紐を数本束ね、結び、また解いては結び直す。だが、その動きは滑らかさとは程遠い。
「……あれ。おかしいな」
小さく零れた声には、焦りが混じっていた。
眉間に深い皺を寄せ、手元の紐を睨みつける。何度もやり直したせいで、編み目は歪にねじれ、ところどころが不自然に固く締まってしまっていた。
(えっと……左を上にして、次は右をくぐらせて……違う。逆だったかな)
スラムにいた頃。
泥水を啜るような日々の中で、時折余ったパンを分けてくれた、年上の女がいた。
「いいかい、リリア。こうやって編むんだよ。願い事をしながら結べば、いつか叶うんだってさ。……ま、アタイらの願いなんて、明日の飯くらいだけどね」
そう言って、ガサガサに荒れた指先で魔法のように紐を編み上げて見せた、あの人の笑顔。
(……全然、思い出せない。あんなに簡単そうだったのに)
リリアは小さく溜息をつき、逃げ出しそうになる心を抑えて再び紐を手に取った。
不格好で、不揃い。それでも、リリアはどうしてもこれを形にしたかった。
ここに来てから、数えきれないほどの「施し」を受けた。
凍えることのない清潔な部屋。泥の味のしない温かい食事。身体を沈めれば吸い込まれるような柔らかい寝台。
そして――何より、自分の背後で常に剣を帯び、影のように寄り添い守ってくれる騎士たち。
何かを返したかった。
だが、今の彼女には、自分の名前すら自分のものではない。金も、地位も、贈るべき宝石も持っていない。
あるのは、書庫の隅で見つけた端切れの麻紐と、僅かな自由時間だけだった。
「…………」
無心に指を動かしていた、その時だった。
「聖女」
頭上から、重く低い声が降ってきた。
「っ……!」
リリアはびくりと肩を跳ねさせ、反射的に手元の紐を両手で握り込んだ。
振り向くと、そこには近衛騎士団長カイルが立っていた。
鋼の甲冑を纏い、感情を一切排した瞳で自分を見下ろしている。陽光の下にあっても、彼の放つ空気は戦場のそれと同じく、冷たく研ぎ澄まされていた。
「……カイル、さん」
「何をしている。休憩の時間のはずだが」
「え、えっと……その……」
リリアは言葉に詰まり、視線を彷徨わせた。だが、隠し通せる相手ではないと悟り、おずおずと、泥を差し出す罪人のような心持ちで両手を開いた。
そこには、見るも無残に歪んだ編み紐が転がっていた。
太さはバラバラ、結び目は不揃い。お世辞にも「贈り物」と呼べる代物ではない。
カイルは一瞬だけそれを見つめ、僅かに眉を寄せた。
「……紐か。何かの儀式用か?」
「み、ミサンガ、です」
リリアは顔を真っ赤にしながら、早口に続けた。
「その……願いが叶うっていう、おまじないの紐で……。昔、知り合いの人に教えてもらったんです」
カイルは黙ったまま、リリアの手のひらを見つめている。
「あの、護衛をしてくださっているお礼に……。何か、お返しをしたくて。でも、私にはこんなものくらいしか……」
「礼?」
カイルの声は、どこまでも平坦だった。
「はい。いつも、守ってくれているから」
沈黙が中庭に落ちた。
カイルは、目の前の小さな少女を冷徹に観察する。
この女は、帝国を救う唯一の鍵。最優先保護対象。守ることは「任務」であり、絶対の規律だ。感情が介在する余地など、一欠片もありはしない。
「任務だ」
鉄の響きを持つ、短い拒絶。
「聖女が気にする必要はない。俺は俺の仕事を全うしているだけだ」
リリアは、期待していたわけではない。それでも、突き放された感覚に、少しだけ肩を落とした。
「……そう、ですよね。すみません、変なもの押し付けようとして」
だが、彼女はすぐに顔を上げた。
「でも、作っちゃったので…」
差し出された手。その上に乗る、粗末で不細工な麻紐。
カイルはしばらく、それを見つめていた。
皇帝から下賜される絢爛な褒章でもなければ、神殿が用意する神聖な祝福具でもない。ただの、価値のないゴミのような紐だ。
「…………」
だが。
差し出されたリリアの指先が、僅かに、微かに震えていた。
拒絶される恐怖に耐えながら、それでも「返したい」と願うその小さな意志。
カイルは小さく、自分にしか聞こえないほどの吐息を漏らした。
そして。
分厚い、戦いを知る指で、その歪な紐を摘み上げた。
「……分かった。預かろう」
それだけ言うと、彼はその紐を無造作に懐へとしまい込んだ。
リリアは、弾かれたように顔を上げた。
「ありがとうございます……! あの、本当は腕に結ぶといいんですけど」
「……腕にか」
「願い事をするんです。それで、願いが叶ったときに――切れるんですって」
「覚えておこう」
カイルは短く答えたが、腕に結ぶ様子はなかった。
それを見て、リリアは少しだけ困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「……そのまま、忘れちゃいそうですね」
カイルは答えない。
ただ、一度だけ、リリアの瞳をじっと見つめた。
陽光を浴びた彼女は、最初に出会った時の死人のような表情ではなく、たしかに「生きている」人間の顔をして笑っていた。
なぜ、この程度のことでそんな顔をするのか。
なぜ、自分はあんな価値のない紐を受け取ってしまったのか。
カイルには、理解できなかった。
ただ――捨てようとは、思わなかった。




