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20 胃痛

王城の北側に位置する、イーサンの私的な書斎。

そこは本来、帝国の政務を滞りなく処理するための静謐な空間だ。


だが今、机を挟んで座る少女の存在が、その静寂をかき乱していた。

イーサンは、眉間に刻まれた深い皺を指先で押さえた。


「……もう一度言います」

努めて冷静な声を出す。だが、その声音には隠しきれない疲労が滲んでいた。


「皇帝陛下の前では、椅子に座る前に必ず許可を得てください」

向かいの椅子で、リリアが借りてきた猫のように背を丸め、素直に頷く。

「はい」

返事だけはいい。だが、彼女の中に染み付いた「生きるための本能」は、王城の礼儀作法という薄っぺらな皮膜を容易に突き破る。


「そして」

イーサンは苛立ちを逃がすように、コツコツと指先で机を叩いた。

「食事の際に皿を持ち上げない」


「あ」

リリアが気まずそうに視線を逸らした。

「……持ち上げていましたね」

「スープ、こぼれそうだったので……」

「この城の皿は、持ち上げなくてもこぼれません」

「すごいですね」

「すごくありません」

即答だった。


イーサンは、リリアの視線の動きを見逃さなかった。彼女は常に、周囲の「音」や「気配」に敏感だ。それは敬意を払うためではなく、いつ襲われるか、あるいはいつ獲物を奪われるかを警戒する、野良犬のそれだ。


「スラムでは、こうしないと取られるんです」

リリアは両腕で皿を囲うような仕草をしてみせた。

「こうやって食べないと、隣の人に取られるので」


イーサンの言葉が、一瞬止まった。

喉の奥に苦いものがせり上がる。彼女が語る「日常」は、この輝かしい王城の論理が一切通じない、飢えの世界だ。


「……ここでは取られません」

「そうなんですか」

「ええ。誰も、あなたの食事を奪いはしない」

リリアは少し安心したように、小さく息を吐いて頷いた。

「じゃあ、ゆっくり食べます」

「そうしてください」

だが、その安心も束の間だった。


リリアの視線が、イーサンの机の端に置かれた昼食の残りに吸い寄せられる。一片の、乾きかけた白パン。


「……イーサン様」

「なんですか」

「そのパン。余ったら、持って帰っていいですか?」


イーサンは目を閉じた。胃がキリキリと痛む。


「……なぜです。先ほど、食事は出ると言ったはずですが」

「明日おなかすいたら食べたいので」

一切の迷いのない即答。


「この城では、毎日食事が、三食必ず出ます。忘れたのですか」

「毎日?」

「毎日です」

「すごいですね」

「……普通です」


リリアはしばらく黙っていた。それから、少し照れたように、そして何かとてつもなく贅沢な秘密を共有したかのように笑った。


「じゃあ、明日も食べられるんですね」


イーサンは返事ができなかった。

明日、自分が生きているかさえ分からない世界から来た少女。


その時、ふと視線を落としたイーサンの目が、一点で止まった。


リリアの足。

豪奢な絨毯の上で、彼女の足は、剥き出しのまま石の床に触れていた。


「……リリア。靴はどうしました」

「靴?」

リリアは自分の足元を見た。「あ」と小さく声を漏らす。


イーサンの額の血管が、ぴくりと跳ねた。

「……どこです」

「部屋にあります。……歩きにくいので、つい」

次の瞬間。イーサンの声が、自分でも驚くほど鋭く響いた。


「履きなさい!」


リリアがびくっと肩を跳ねさせ、縮こまる。

書斎に、重苦しい沈黙が降りた。

イーサンは自身の荒くなった呼吸を整えようとしたが、胸の奥に湧き上がる正体不明の焦燥がそれを許さない。


「ここは王城です! 裸足で廊下を歩く人間がどこにいますか!」

「スラムでは普通で――」

「ここはスラムではありません!!」

言い切ってから、イーサンは深く、深く息を吐いた。

リリアは、捨てられた子犬のような顔で肩をすくめている。

その細い、今にも折れそうな足首が見えた。


「……足を見せなさい」

「え?」

「見せなさいと言っているのです」

リリアをおずおずと椅子に座らせ、イーサンはその場に膝をついた。


帝国参謀ともあろう男が、召喚されたばかりの小娘の足元に跪く。

石畳で擦れた生々しい赤み。ひび割れた皮膚。洗っても落ちきらない、過去の苦労が染み付いた古傷。

イーサンは無言で、机の引き出しから薬瓶を取り出した。

指先に取った薬を、その傷に塗り込んでいく。


「……イーサン様。怒ってます?」

「黙ってください」

「はい」

イーサンは、自分の手が微かに震えていることに気づいていた。


怒っている。ああ、怒っている。


自分を大切にしようとしない彼女に。

そして、これほどまでに脆い少女に、帝国の命運を背負わせようとしている、この世界の仕組みに。


「……私は」

包帯を巻きながら、イーサンは低く呟いた。

「あなたの教育係です。最低限の礼儀くらいは覚えてもらわないと、私が困るのです」

包帯を結び終え、イーサンは立ち上がった。


リリアは不思議そうに自分の足を見つめたあと、少しだけ嬉しそうに笑った。

「じゃあ、頑張ります。イーサン様に怒られないように」


イーサンは顔を上げないまま、机の上のパンを指先でリリアの方へ押しやった。

「……それは持って帰りなさい」

リリアが目を丸くする。

「いいんですか?」

「余り物です。捨てる手間が省ける」

書類をめくるふりをして、イーサンは視線を逸らした。

「……ありがとうございます!」

弾んだ声。パンを大切そうに抱えて、リリアが書斎を出ていく。


パタン、と扉が閉まったあと。

イーサンは、わずかに痛む胃をなだめるように、腹をさすった。

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