表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/59

19 味見

書庫は、今日も深海のような静まり返っていた。

高い天井まで届く無数の本棚が、帝国の悠久なる歴史を重々しく守っている。革表紙の匂いと古びたインクの香りが混ざり合うこの場所は、いつしかリリアにとって、唯一「自分を消せる」聖域となっていた。


部屋の中央、重厚な机の上で、リリアは分厚い文献に顔を埋めるようにして、一心不乱にペンを走らせていた。


先日から彼女が取り憑かれたように調べているのは、帝国の負の遺産――瘴気の発生記録だ。

広げられた地図の上には、過去数十年の発生地点が黒い点として無数に打たれ、蜘蛛の巣のように線が引かれている。気象記録、地方誌、神殿の秘匿された書状。それらを見比べ、リリアは小さく唸った。


「……うーん、やっぱり法則が見えない」


風向きでも、降雨量でも、地形の起伏でもない。

ただ「聖女」として呼ばれ、言われるがままに浄化するだけの存在ではいたくなかった。何か、この国を救うための「予兆」を見つけ、少しでも恩義を返したい。

だが、どれほど目を凝らしても、黒い点は冷酷な沈黙を保ったままだった。


「難しそうだね、リリア」


不意に、天光が差し込むような穏やかな声が落ちてきた。

「っ……!」

リリアは心臓が跳ねるほど驚き、弾かれたように振り返った。

「へ、陛下……っ!」


いつの間に足を踏み入れていたのか。入口には、陽光を背負った皇帝ジークヴァルドが立っていた。その背後には、眼鏡の奥から測量士のような冷徹な視線を向けるイーサン。さらに壁際では、彫像のように気配を殺したカイルが控えている。


ジークヴァルドは優雅な足取りで机に歩み寄り、散らばった書き付けを覗き込んだ。

「これは……瘴気の発生地点の分析かい?」


「は、はい……」

リリアは慌てて姿勢を正し、指先に付いたインク(黒ずみ)を隠すように手を握りしめた。

「何か法則がないかと思って。もし事前に分かれば、少しは皆さんの役に立てるかなって……思って……」


語尾が小さくなるリリアに対し、ジークヴァルドは一瞬だけ、慈しむように目を細めた。

そして、春の陽だまりのような笑みを浮かべる。


「君は、すでに十分すぎるほど役に立っているよ。リリア」

さらりと、だが絶対的な肯定を含んだ言葉。リリアは不意を突かれ、言葉に詰まった。


「瘴気をその身で浄化できる存在は、この広大な帝国において君ただ一人だ。それだけで、どれほどの価値があるか……。どうやら君自身が、一番自分の価値を分かっていないようだね」


優しい声だった。王としての命令ではなく、一人の男としての心からの労い。

リリアは、胸の奥が温かくなるのを感じながらも、所在なげに視線を落とした。


「……でも、できることは多い方がいいです。聖女って……そのために、呼ばれたんですよね」

ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟く。

ジークヴァルドはその言葉の重みを計るように、数秒の沈黙を置いた。


「……そうだね」

やがて、彼は静かに頷く。


「だが、君はもう十分以上に働いている。少しくらい羽を休めても、この国の誰も君を責めはしないよ」

「……休むの、少し苦手なんです。何かしていないと、落ち着かなくて」

「はは、そう見える」

ジークヴァルドが声を立てて笑った。その笑い声は、王城の重圧を忘れさせるほど軽やかだった。


「聖女が書庫にこもって地図と格闘しているとはね。神殿の堅物たちが聞けば、驚いて腰を抜かすだろう」

「そうなんですか?」

「ああ。彼らの記録では、聖女というものは常に祈りを捧げているか、神殿の奥で優雅に微笑んでいるものだからね」


リリアはぱちぱちと瞬きをし、首を傾げた。

「……それ、暇じゃないんですか?」


思わず出た素直な疑問。

その瞬間、後ろに控えていたイーサンの口元が、笑いを堪えるようにピクリと反応した。

ジークヴァルドは一拍置き、こらえきれないといった風に肩を震わせた。


「ははっ……なるほど。確かに、君に比べれば彼女たちは随分と暇だったかもしれないな」


皇帝が、声をあげて笑った。

それは、臣下たちが戦場でも政務でも滅多に目にすることのない、心からの愉悦。


カイルは無言のままだったが、ほんのわずかに視線を逸らし、居心地悪そうに剣の柄に手をかけた。

リリアは少しだけ安心したように息をつき、再び地図へと目を戻した。


「でも……。瘴気って、なんで出るんでしょうね」


不意に落ちたその問いが、書庫の空気を一変させた。


ジークヴァルドは地図に打たれた黒い印を見つめる。それは、帝国が抱え続けてきた「死」の履歴。


「……さあ。それが分かれば、この国からは絶望という言葉が消えるだろうね」


皇帝の声は穏やかだったが、その瞳の奥には、王としての深い思索と、逃れられぬ運命を見据える鋭さが宿っていた。


「さて、お喋りが過ぎたかな。私も調べ物があって来たんだったよ」

ジークヴァルドは軽く机を叩き、優雅に身を翻して書棚の奥へと消えていった。


リリアはその背中を見送りながら、ふと、不思議な感覚に包まれた。

(……なんだか)

昨日まで自分を閉じ込めていたこの書庫が、ほんの少しだけ、居心地の良い「居場所」に変わったような気がした。




書棚の影、リリアから見えない場所で、ジークヴァルドは足を止めた。

少し離れた机では、再びリリアが地図と格闘を始めている。細い指で線を消し、書き直し、また唸る。

その献身的な後姿を、皇帝は静かに、そして複雑な光を宿した瞳で見つめていた。


「……熱心なことだ。我々の期待を、軽々と越えていく」

「ええ」

隣に並んだイーサンが、感情を排した声で応じる。


「お前が教育を担当していたね。彼女をどう見ている」

ジークヴァルドの問いに、イーサンはモノクルを押し上げ、冷徹な分析を口にした。


「理解は極めて早いです。知識の蓄積ではなく、生きるための『吸収速度』が異常に速い。知らないことを恥じず、分からないことをそのままにしない。生存競争を勝ち抜いてきた者の学習姿勢です」

「珍しく褒めるじゃないか」

「事実を述べているまでです。……加えて」


イーサンは言葉を切り、机に向かう小さな背中を冷たく、だが鋭く見据えた。

「自己評価が、極端に低い。彼女は自分を『役に立たなければ存在価値がない者』として扱っています」


ジークヴァルドの眉が、わずかに動いた。

「だからこそ、与えられた役割以上の成果を出そうと、自らを削る。役に立てなければ、ここに居場所はないと思い込んでいるのでしょう」


書庫の静寂の中に、リリアがページをめくる乾いた音だけが響く。

ジークヴァルドはしばらく沈黙を守り、やがて、一人の大人として、ひどく静かな声を漏らした。


「……あまりに重すぎるごうだね」

イーサンは答えなかった。

ただ、二人の男たちは、帝国の未来を背負わされた女性の、あまりにも健気で危うい孤独を、しばらくの間見守り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ