19 味見
書庫は、今日も深海のような静まり返っていた。
高い天井まで届く無数の本棚が、帝国の悠久なる歴史を重々しく守っている。革表紙の匂いと古びたインクの香りが混ざり合うこの場所は、いつしかリリアにとって、唯一「自分を消せる」聖域となっていた。
部屋の中央、重厚な机の上で、リリアは分厚い文献に顔を埋めるようにして、一心不乱にペンを走らせていた。
先日から彼女が取り憑かれたように調べているのは、帝国の負の遺産――瘴気の発生記録だ。
広げられた地図の上には、過去数十年の発生地点が黒い点として無数に打たれ、蜘蛛の巣のように線が引かれている。気象記録、地方誌、神殿の秘匿された書状。それらを見比べ、リリアは小さく唸った。
「……うーん、やっぱり法則が見えない」
風向きでも、降雨量でも、地形の起伏でもない。
ただ「聖女」として呼ばれ、言われるがままに浄化するだけの存在ではいたくなかった。何か、この国を救うための「予兆」を見つけ、少しでも恩義を返したい。
だが、どれほど目を凝らしても、黒い点は冷酷な沈黙を保ったままだった。
「難しそうだね、リリア」
不意に、天光が差し込むような穏やかな声が落ちてきた。
「っ……!」
リリアは心臓が跳ねるほど驚き、弾かれたように振り返った。
「へ、陛下……っ!」
いつの間に足を踏み入れていたのか。入口には、陽光を背負った皇帝ジークヴァルドが立っていた。その背後には、眼鏡の奥から測量士のような冷徹な視線を向けるイーサン。さらに壁際では、彫像のように気配を殺したカイルが控えている。
ジークヴァルドは優雅な足取りで机に歩み寄り、散らばった書き付けを覗き込んだ。
「これは……瘴気の発生地点の分析かい?」
「は、はい……」
リリアは慌てて姿勢を正し、指先に付いたインク(黒ずみ)を隠すように手を握りしめた。
「何か法則がないかと思って。もし事前に分かれば、少しは皆さんの役に立てるかなって……思って……」
語尾が小さくなるリリアに対し、ジークヴァルドは一瞬だけ、慈しむように目を細めた。
そして、春の陽だまりのような笑みを浮かべる。
「君は、すでに十分すぎるほど役に立っているよ。リリア」
さらりと、だが絶対的な肯定を含んだ言葉。リリアは不意を突かれ、言葉に詰まった。
「瘴気をその身で浄化できる存在は、この広大な帝国において君ただ一人だ。それだけで、どれほどの価値があるか……。どうやら君自身が、一番自分の価値を分かっていないようだね」
優しい声だった。王としての命令ではなく、一人の男としての心からの労い。
リリアは、胸の奥が温かくなるのを感じながらも、所在なげに視線を落とした。
「……でも、できることは多い方がいいです。聖女って……そのために、呼ばれたんですよね」
ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟く。
ジークヴァルドはその言葉の重みを計るように、数秒の沈黙を置いた。
「……そうだね」
やがて、彼は静かに頷く。
「だが、君はもう十分以上に働いている。少しくらい羽を休めても、この国の誰も君を責めはしないよ」
「……休むの、少し苦手なんです。何かしていないと、落ち着かなくて」
「はは、そう見える」
ジークヴァルドが声を立てて笑った。その笑い声は、王城の重圧を忘れさせるほど軽やかだった。
「聖女が書庫にこもって地図と格闘しているとはね。神殿の堅物たちが聞けば、驚いて腰を抜かすだろう」
「そうなんですか?」
「ああ。彼らの記録では、聖女というものは常に祈りを捧げているか、神殿の奥で優雅に微笑んでいるものだからね」
リリアはぱちぱちと瞬きをし、首を傾げた。
「……それ、暇じゃないんですか?」
思わず出た素直な疑問。
その瞬間、後ろに控えていたイーサンの口元が、笑いを堪えるようにピクリと反応した。
ジークヴァルドは一拍置き、こらえきれないといった風に肩を震わせた。
「ははっ……なるほど。確かに、君に比べれば彼女たちは随分と暇だったかもしれないな」
皇帝が、声をあげて笑った。
それは、臣下たちが戦場でも政務でも滅多に目にすることのない、心からの愉悦。
カイルは無言のままだったが、ほんのわずかに視線を逸らし、居心地悪そうに剣の柄に手をかけた。
リリアは少しだけ安心したように息をつき、再び地図へと目を戻した。
「でも……。瘴気って、なんで出るんでしょうね」
不意に落ちたその問いが、書庫の空気を一変させた。
ジークヴァルドは地図に打たれた黒い印を見つめる。それは、帝国が抱え続けてきた「死」の履歴。
「……さあ。それが分かれば、この国からは絶望という言葉が消えるだろうね」
皇帝の声は穏やかだったが、その瞳の奥には、王としての深い思索と、逃れられぬ運命を見据える鋭さが宿っていた。
「さて、お喋りが過ぎたかな。私も調べ物があって来たんだったよ」
ジークヴァルドは軽く机を叩き、優雅に身を翻して書棚の奥へと消えていった。
リリアはその背中を見送りながら、ふと、不思議な感覚に包まれた。
(……なんだか)
昨日まで自分を閉じ込めていたこの書庫が、ほんの少しだけ、居心地の良い「居場所」に変わったような気がした。
書棚の影、リリアから見えない場所で、ジークヴァルドは足を止めた。
少し離れた机では、再びリリアが地図と格闘を始めている。細い指で線を消し、書き直し、また唸る。
その献身的な後姿を、皇帝は静かに、そして複雑な光を宿した瞳で見つめていた。
「……熱心なことだ。我々の期待を、軽々と越えていく」
「ええ」
隣に並んだイーサンが、感情を排した声で応じる。
「お前が教育を担当していたね。彼女をどう見ている」
ジークヴァルドの問いに、イーサンはモノクルを押し上げ、冷徹な分析を口にした。
「理解は極めて早いです。知識の蓄積ではなく、生きるための『吸収速度』が異常に速い。知らないことを恥じず、分からないことをそのままにしない。生存競争を勝ち抜いてきた者の学習姿勢です」
「珍しく褒めるじゃないか」
「事実を述べているまでです。……加えて」
イーサンは言葉を切り、机に向かう小さな背中を冷たく、だが鋭く見据えた。
「自己評価が、極端に低い。彼女は自分を『役に立たなければ存在価値がない者』として扱っています」
ジークヴァルドの眉が、わずかに動いた。
「だからこそ、与えられた役割以上の成果を出そうと、自らを削る。役に立てなければ、ここに居場所はないと思い込んでいるのでしょう」
書庫の静寂の中に、リリアがページをめくる乾いた音だけが響く。
ジークヴァルドはしばらく沈黙を守り、やがて、一人の大人として、ひどく静かな声を漏らした。
「……あまりに重すぎる業だね」
イーサンは答えなかった。
ただ、二人の男たちは、帝国の未来を背負わされた女性の、あまりにも健気で危うい孤独を、しばらくの間見守り続けていた。




