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18 逃げないご飯

最初の浄化を終えてから、数日が過ぎた。


王城の喧騒から隔絶された奥深く、古い紙と乾いたインクの匂いがおりのように積もる書庫。そこは、いつしかリリアにとって、唯一呼吸のしやすい「定位置」となっていた。


広く重厚な黒檀の机の上には、帝国の全土を網羅した巨大な地図が広げられている。その周囲を囲むのは、年代ごとの気象記録や地方史、魔力の流れを記した古びた文献の山だ。

リリアは細い指先で地図の一点をなぞり、深く眉を寄せた。


「……やっぱり、分からない」

瘴気の発生地点。降雨量。卓越風の向き。地層の構成。

寝食を忘れていくつもの記録を突き合わせ、法則性を見出そうとした。聖女として、この国に招かれた恩義を返すために、何か少しでも役に立つ「予兆」を見つけたかったのだ。

だが、今のところその努力は空振りに終わり、徒労感だけが指先に溜まっていく。


ふう、と小さく吐息をつき、リリアは気晴らしに机の端に避けていた別の本を引き寄せた。


『帝国料理大全』。


聖典のような重厚な装丁を開くと、そこには魔術的な色彩で描かれた、鮮やかな挿絵の世界が広がっていた。


香ばしい焼き色のついた分厚い肉料理。

銀の器からとろりと溢れ出す、熟成されたチーズ。

黄金色の衣を纏い、今にもサクリと音がしそうな揚げ魚。


スラムの泥の中では、想像することさえ贅沢だった「本物の食べ物」が、ページをめくるたびに現れる。リリアは吸い寄せられるように、思わず身を乗り出した。


「…………」

絵だと分かっていても、目が離せない。

もし、これが本当に目の前にあったなら。もし、これを誰にも奪われずに、腹一杯食べることができたなら――。


「それ、うまいぜ」


不意に、すぐ背後の闇から低い声が落ちてきた。

「っ……!」

リリアは心臓が口から飛び出すほど跳ね起き、反射的に本をぱたりと閉じた。


そのまま、獲物を守る獣のような鋭さで本を胸元に抱え込む。手に入れたパンを、誰にも取られまいと隅に丸まって隠す、あのスラムでの卑屈な仕草が染み付いていた。


それを見たゲルハルトは、低く、喉を鳴らして笑った。

「安心しろ。取りゃしねえよ」

壁に背を預け、腕を組んで肩をすくめる。

「そもそもそれ、紙だ。食えねえしな」

リリアははっとして、抱えていた本を机に戻し、気まずそうに視線を落とした。耳の裏までが、じわりと熱くなる。

「……そんなの、わかってますよ」

消え入るような声で言いながら、そっと本を開き直す。


ページをめくるたびに、宝石のような料理が現れる。じっくりと煮込まれた真紅のスープ、果実を惜しげもなく使った甘い菓子、異国の香辛料が香る肉。

リリアは、しばらく黙ったままそれを眺めていた。


やがて、夢を見ているような心地で、ぽつりと呟く。

「……これ、ほんとにあるんですか。このお城の中に」

「ある。全部な」

ゲルハルトは迷いなく即答した。

「城の厨房にいる連中なら、大体どんな我儘でも皿に乗せて出してくれるさ」

リリアの指先が、香ばしく焼かれた肉の挿絵の端を、恐る恐るなぞった。

「……すごいですね。……本当に」


その声には、聖女としての義務感ではない、一人の飢えた女性としての切実な憧れが混じっていた。


「一番うまいのは、やっぱり肉だ」

ゲルハルトが、ふと思い出したようにぺろりと舌なめずりをした。


どんな猛々しい馳走を思い浮かべたのか。リリアは釣られるように想像してしまい、ごくり、と喉を鳴らして唾を飲み込む。


肉。


帝国に召喚されてからは、毎日のように食卓に並んでいる。


けれど、あの異臭と腐敗にまみれた場所では、それは「奇跡」と同義の代物だった。運良く手に入ったとしても、色が変わり、悪臭を放つ「残りもの」ばかり。

ここに来てから、一度も腹を下していないことに、未だに少し驚いているくらいなのだ。


「……わかります。肉、美味しいですよね。信じられないくらい」

しみじみと、魂から漏れるような同意。

ゲルハルトは、面白そうに口角を上げた。

「だろ?」

軽く肩をすくめ、彼はリリアの隣に並ぶようにして壁にもたれかかった。


「俺も、お前と似たような暮らししててよ。騎士になって初めて食った『まともな肉』のうまさには、ひっくり返るかと思ったぜ」

その言葉に、リリアは小さく瞬きをした。


(……ああ、だからだ)


ゲルハルトと話していると、他の誰とも違う、不思議な安らぎを感じる。

それは、スラムで幼い頃に自分を守ってくれた、名も知らぬ年上の少年の背中に、どこか似ているのだ。泥の中にいても、彼だけは同じ「飢え」を共有していた。


ふと、リリアの強張っていた口元が、柔らかく緩んだ。

「私も……驚いた。お肉って、あんなに……熱くて、甘いんですね」

ぽつりと独り言のように漏らすと、自分でも気づかないうちに、くすりと小さく笑っていた。

その笑顔を横目で捉えたゲルハルトは、一瞬だけ視線を止めた。

それから、何でもないふうに頭の後ろで手を組み、再び壁を見つめる。

「……あーあ。話してたら、肉が食いたくなってきやがった」

ぼやくようなその声に、リリアはまた小さく、今度ははっきりと笑った。

「城の厨房なら、お肉くらいどこかに転がってるんじゃないですか?」

「……お前、聖女のくせにさらっと盗賊みたいなこと言うなよ」

ゲルハルトは呆れたように肩をすくめた。


「安心しろ。城の飯は、お前が逃げない限り、逃げやしねえよ」

少しだけ間を置いて、彼は不器用に付け足した。

「……腹が減ったなら、そう言え。どうせいつも余らせてるんだ。お前が少し食ったところで、誰も文句は言わねえよ」


リリアは一瞬だけ、呼吸を忘れた。


食べ物が逃げない。

奪い合わなくていい。明日も、明後日も、そこにある。

そんな言葉を、誰かに、真っ向から言われたことなんて一度もなかった。


「……はい」


小さく頷くと、リリアは再び『料理大全』に目を落とした。

ページの中の黄金色の料理は、もう届かない夢の産物ではなかった。

リリアは、また少しだけ笑った。その横顔は、泥にまみれた「残りもの」ではなく、たしかに加護を宿した女神のような、穏やかな光を帯びていた。

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