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通された部屋は、先ほどの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
足が沈み込むほど厚い絨毯。体を優しく受け止める柔らかな椅子。
そして、目の前の卓上に並べられた、清らかな水と瑞々しい食事。
視界に入った瞬間、リルの喉が小さく鳴った。
「食べて構わないよ」
落ち着いた声に、肩が跳ねる。
先ほどの男――皇帝ジークヴァルドが、いつの間にか向かいの席に腰を下ろしていた。
「……いいの?」
恐るおそる漏れた問いに、男はわずかに目を細める。
「許可は既に出している」
それ以上の説明はなかった。だが、その一言で十分だった。
――手が、勝手に伸びる。
気づけば、貪るように口に運んでいた。
味など分からない。ただ、空っぽだった内側が未知の温度で満たされていく感覚に、意識が遠のきそうになる。
やがて、ようやく我に返ったリルは、顔を赤くして俯いた。
「……すみません」
消え入りそうな声で呟くと、ジークヴァルドは愉快そうに喉を鳴らした。
「はは。謝る必要はない。見事な食べっぷりだった」
彼は組んだ膝の上に肘をつき、わずかに身を乗り出した。
「さて、まずは説明から始めようか」
その言葉に、リルの背筋が微かに強張る。
「君はこの帝国に召喚された。“聖女”としてね」
――聖女。
リルの知る世界には存在しない響きに、彼女は困惑の瞬きを返す。
「この世界には『瘴気』と呼ばれる、人に害をなす呪いが満ちている。それを浄化し、世界を繋ぎ止められるのは、聖女のみなのだ」
淡々と語られる宿命に、思考が追いつかない。
「……君の名は、何だい?」
不意の問いに、言葉が詰まった。
名前。
かつて自分を呼んでいた、あの忌々しい響き。
「……リル」
絞り出すように答える。
ジークヴァルドは、その音を噛み締めるように繰り返した。
「リル、か」
わずかな沈黙。
「その名には、どんな意味があるのかな」
――やめて。
喉の奥が、ひどく乾く。
知っている。知っているからこそ、口にしたくない。
けれど、その揺るぎない眼差しから逃れることは許されなかった。
「……残り、もの」
震える声が、静寂に落ちる。
「いらないって……捨てられたから、そう呼ばれてた」
言い終えた瞬間、視線を落とした。
同情されるか、あるいは失望されるか。
重苦しい空気が変わるのを待つしかない、絶望的な時間。
「そうか」
返ってきたのは、驚くほど平坦で静かな声だった。
憐れみも、否定もない。ただ、事実として受け取られた。
「それなら」
穏やかな声音のまま、言葉が続く。
思わず顔を上げると、そこには残酷なまでに美しい微笑みがあった。
「我が帝国の言葉に寄せよう。今日から君は――“リリア”だ」
静かに、その名が刻まれる。
「元の名前を損なわず、音を整えただけだ。意味も変えない」
――意味は、変えない。
その言葉に、胸の奥が締め付けられる。
自分は「捨てられた残りもの」のまま、この美しい名で呼ばれる。呪いのような、けれど救いのような響き。
「いいかな?」
柔らかな問い。けれど、それは拒絶を許さない皇帝の宣告だ。
「……はい」
リル――リリアは、深く頷いた。
「では、リリア。本日より、君は我が帝国の聖女だ。――この帝国のため、その務めを果たせ」




