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16 ご馳走

燭台の火が、静かに、けれど不穏に揺れていた。


長い卓の上には、スラムのゴミ溜めでは夢にすら出てこなかったような、色鮮やかな料理が並んでいる。

脂の乗った芳醇な香りを放つ肉。宝石のように透き通るスープ。露を帯びて艶やかに光る果実。

そのすべてが、リリアの目には現実味を欠いた「異界の供物」のように映っていた。


「さあ、楽にしてくれて構わないよ」

正面に座る皇帝ジークヴァルドが、柔らかく微笑んだ。その声音は、獲物を安心させる狩人のように穏やかだ。

「作法など気にする必要はない。ここには、君を咎めるような狭量な者はいないからね」

「……はい」

小さく頷く。けれど、石のように固まった指先は動かない。

視線だけが、豪華な卓の上を彷徨う。


(……本当に、これを全部、食べていいの?)


喉が、ひくりと鳴った。

空腹というよりは、生存本能が上げる悲鳴。

その瞬間だった。


――リリアの、細い手が伸びた。


一度スイッチが入れば、もう止まらなかった。

パンを掴み、野蛮にちぎる。

肉を力任せに口へ運び、咀嚼し、飲み込む。

味わう余裕などない。ただ、身体の奥底に潜む飢えた獣が「食え」と、喉を鳴らして命じていた。


「…………」

卓を囲む四人の男たちは、誰もその光景を止めなかった。

カイルは無言のまま、氷のような視線でその「捕食」を眺め、

イーサンは事務的な冷静さの中に、わずかな観察の光を宿し、

ゲルハルトは、あまりの食べっぷりに目を丸くして固まっている。

そして、ジークヴァルドだけが、まるで慈愛深い飼い主のように、その様子を静かに見守っていた。


やがて。


激しく動いていたリリアの手が、ふと止まる。

気づけば、目の前の皿の上は、ほとんど空になっていた。

(……あ)

我に返ると同時に、冷や汗が背中を伝う。

顔を上げると、四人の視線が自分に集中していた。

「……すみません」

反射的に口をついて出る、卑屈な謝罪。


だが、ジークヴァルドはそれを、春風のような微笑で遮った。

「いや、構わないよ。むしろ、遠慮される方が困る。……そのために用意させたのだからね」

責める色は、微塵もない。

ただ「当然の権利を行使しただけだ」と言わんばかりの声音に、リリアは居心地の悪さを感じながら視線を落とした。


重苦しい沈黙の隙間に、一言、リリアの唇から言葉がこぼれ落ちる。

「……あの」

「なんだい?」


「どうして……私の名前を、変えたんですか」


空気が、わずかに静まる。

問いを投げた直後、心臓が激しく脈打った。皇帝の決定に疑問を呈するなど、スラムなら即座に首が飛ぶ不敬だ。

ジークヴァルドは、少しだけ目を細めた。

「気に入らなかったかな」

「……ちがいます。ただ……」

言葉が、うまく続かない。

けれど、自分の中に居座る「違和感」を、どうしても吐き出さずにはいられなかった。


「……意味は、同じだから」

ぽつりと落ちたその一言に、場の空気がわずかに揺れた。


リリアは知っている。自分がかつて呼ばれていた「リル」という名の意味を。

それは、帝国の公用語ではない、スラムの卑語で――“残りもの”。“いらないもの”。

どれだけ綺麗な響きに変えようと、自分という存在の本質が「不要品」である事実は変わらない。

「……そうだね」


返ってきたのは、否定ではなかった。

ジークヴァルドは、隠し事など無意味だと悟らせるように、深く、静かに頷く。

「意味は、変えていない」


一拍。

その言葉は、リリアの予想通り、残酷なまでに正確な刃となって胸を刺した。


やはり、そうだ。変わっていない。自分は、高貴な「聖女」などではなく、ただの便利な「残りもの」なのだ。


「ただ」


続いた声は、先ほどよりも、ほんの少しだけ柔らかかった。

「我が帝国の言葉に寄せた。“リリア”という音はね。この国では古くから、縁起の良い響きとして扱われているんだ」

「……え」

思わず、顔を上げる。


「大げさな意味を持たせたわけではないよ。ただ、その音で呼ぶ方が、お互いにとって都合がいいと思っただけだ。だが――」

ジークヴァルドは、軽く肩をすくめ、まっすぐにリリアを見据えた。

「君を呼ぶ名としては、その方が、悪くない。……私はそう思っているよ」


否定も、同情もない。

ただ、「そのままでもいい」と、傲慢なまでに力強く全肯定された気がした。


「……」

胸の奥が、わずかにざわつく。

意味は変わっていない。自分は“残りもの”のまま。

けれど。

リリア、という響きは、たしかに少しだけ温かい。

「……はい」

もう一度、頷いた。その返事は、さっきよりもわずかにだけ、はっきりしていた。



晩餐が終わり、一人きりの部屋へと戻る。

重厚な扉が閉じられ、静寂がリリアを包み込む。

彼女はふらつく足取りで、洗面台の前に立った。

冷たい水を汲み、手にかける。

指の隙間を流れる、透明な水の感触に、ようやく一息ついた時だった。


「……あれ?」


手のひらをじっと見つめ、リリアは眉を寄せた。

うっすらと、すすのような黒い汚れがついている。

あの浄化の際、瘴気に直接触れた右の手のひらだ。

リリアは石鹸を手に取り、両手をばしゃばしゃと激しく洗う。

けれど、その汚れは落ちない。

「……?」

もう一度、肌が赤くなるほど強く擦る。

だが煤は、まるで皮膚の内側に染み込んでいるかのように、頑として消えなかった。

しばらくその手を見つめていたが、リリアは諦めたように水を止めた。

「やだなぁ……」

湿ったタオルで手を拭い、小さくため息を吐く。


深い倦怠感が、再び身体を支配し始めていた。

リリアは重い足取りでベッドへと向かい、吸い込まれるように横になる。

手のひらの煤は、かすかに、けれど確実に熱を持っていた。


それが、内側に閉じ込めた瘴気の「毒」であることに、彼女はまだ気づいていない。

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