15 新しいレシピ
重厚な扉が、音もなく閉じられた。
皇帝執務室を満たしているのは、研ぎ澄まされ、張り詰めた空気だ。
「戻りました」
低く、余分な感情を削ぎ落とした声。
近衛騎士団長カイル・ヴァルテンベルクは、ジークヴァルドの前で深く片膝をつき、騎士の礼をとった。その姿勢には、長旅の疲れも、死地から帰還した高揚感すらも見当たらない。
執務机の向こう側で、皇帝ジークヴァルドは穏やかな笑みを浮かべ、忠実な騎士を見下ろしていた。
「おかえり、カイル。……無事な顔を見られて安心したよ。さあ、早速報告を聞かせてもらおうか」
「はっ。帝国北西部、瘴気発生地において、聖女による完全な浄化を確認いたしました」
カイルの口から紡がれるのは、報告書を読み上げるような、無機質な事実の羅列だ。
「発生していた瘴気は、霧散ではなく『完全な消失』を確認。周辺一帯の再発の兆候も認められず、土地の腐食も停止しております」
「……そうか」
ジークヴァルドの口元に、深い満足を湛えた笑みが浮かぶ。
「被害はどうだった」
「兵士数名が、初期の瘴気圧に当てられ一時的に行動不能に陥りました。……ですが、聖女が前線に立ち浄化を開始した後は、それ以上の被害は皆無。死者は、一名も出しておりません」
「……実に見事だ。よくやってくれた、カイル」
淡々としたやり取り。
だが、その言葉の裏側には、帝国を統べる者としての切実な安堵が滲んでいた。百年ぶりの災厄に対し、一人の犠牲者も出さずに勝利を収めた。
「――それで、聖女の状態はどうだい」
不意に投げかけられたその問いに、カイルは一瞬だけ沈黙した。
ほんの、刹那。
まばたき一つ分にも満たない、空白の沈黙。
カイルの脳裏に、夕陽を背に受け、黒い靄のようなの瘴気を無表情で浄化していた女性の姿がよぎる。あの時感じた、肌を刺すような違和感。
だがすぐに、彼はいつもの鉄面皮を取り戻し、冷徹に答えた。
「……問題ありません。浄化の際も、その後も、体調の悪化は見受けられませんでした。極めて冷静に、職務を遂行しました」
それは、カイルの目に映った、紛れもない「事実」だった。
苦悶の表情一つ見せず、汗一滴流さず、ただ静かに地獄を消し去った少女の姿。
あれを「異常」と断じるための材料を、カイルは持ち合わせていなかったのだ。
「素晴らしいな。……まさに、天が遣わした救世主というわけか」
ジークヴァルドは、深く満足したように頷いた。
「これで、百年ぶりの懸念は一つ消えた。帝国に、真の聖女が降臨したことを証明できたわけだ」
その声音には、揺るぎない確信があった。
「イーサン」
「はっ」
背後に控えていた補佐官が、音もなく一歩前へ出る。
「聖女の功績は、速やかに各所へ通達しろ。神殿、貴族院、そして民衆へもだ。無用な混乱を避けるためにも、今回の遠征は『神聖なる完全な成功』として扱う。疑念の余地など、一片も残すな」
「承知いたしました」
イーサンは、微塵の迷いもなく頭を下げた。
その眼鏡の奥には、すべてが計算通りに運んだことへの、静かな安堵が浮かんでいる。
「また、次の発生に備えた準備も並行して進めます。今回の遠征記録は私の方で厳密に整理し、後世に残すべき『完璧な模範』として編纂いたしましょう」
「ああ、頼む。……ようやく、先人の詩的な戯言ではない、まともな記録が残せそうだな」
ジークヴァルドは、皮肉めいた一言を漏らしながらも、満足げに目を細めた。
聖女という最強の切札を手に入れ、浄化に成功した。
「引き続き、遠征の際の聖女の警護はお前に一任する。頼めるか、カイル」
「御意」
短く、力強い返答。
それで、この場での報告はすべて終わった。
誰も、疑わなかった。
誰一人として、この「完璧な成功」の裏側に、救いようのない異常を見出す者はいなかった。
豪華な執務室。
称賛の声。
帝国の未来を語る、有能な男たち。
その眩い光の輪の中に、リリアの席はなかった。
一人、馬車の隅で血を吐くような思いで耐えていた少女の地獄など、この王城の誰にも届くことはない。
――帝国史上、最も美しい浄化。
——その代償を、誰も知らないまま。




