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14 ごちそうさまでした

――いただきます。


その一言を境界に、世界から音が消えた。

リリアは、ゆっくりと両手を前にかざした。

渦巻く瘴気の核心部へと、躊躇なくその手のひらを突き入れる。


「…………っ!!」

その瞬間、リリアの全身を襲ったのは、文字通り「想像を絶する」苦痛だった。


手のひらから流れ込んでくるのは、救済の光などではない。

沸騰した何かを血管に流し込まれ、内側から焼き潰されるような、凄絶な破壊の奔流。

神経が一本ずつ引きちぎられ、脳が焼き切れるほどの衝撃がリリアを貫く。


普通なら、声も上げられずにショック死していてもおかしくない。

生きたまま、内側から「腐食」という名の拷問を受けているに等しいのだから。


(……あ、あつい。いたい……いたい……っ!)


内面では、のたうち回るほどの悲鳴を上げている。

だが、リリアの表情は、驚くほど静止していた。


指先一つ、動かない。


顔色一つ、変えない。


ただ、静かに、神々しいまでの無表情で、その両手で瘴気を「受け止めて」いる。

それは、スラムで叩き込まれた生き方だった。


――弱みを見せれば、喰われる。

――傷を晒せば、そこから腐らされる。


野生動物が、致命傷を負ってもなお平然と歩いて見せるように。

リリアは、自身の内で荒れ狂う「死」の激痛を、完璧な無表情の下に押し込めていた。


「……ぁ」

喉の奥から、熱い吐息が漏れる。


痛い。苦しい。死ぬほど、おぞましい。

けれど。

その地獄のような苦痛と同時に、リリアの腹の底には、気味の悪い「充足感」が満ち始めていた。


(……入ってくる。私の中に……壊しながら、満たしていく……)


血管を焼き、骨を軋ませながら、瘴気という巨大なエネルギーがリリアという「器」に収まっていく。

破壊されながら、再構築される感覚。

それは、空腹のあまり腐った肉を胃に詰め込み、腹痛にのた打ち回りながらも「命が繋がる」ことに安堵した、あの日の記憶に重なった。

喰らえば喰らうほど、身体は悲鳴を上げ、魂は満たされていく。



後ろで見ていたカイルは、その光景に、ただただ圧倒されていた。


(……なんて、静かな浄化だ)


カイルの目に見えているのは、一人の女性が、ただ手をかざしているだけで瘴気を「消し去っていく」奇跡の光景だ。


苦悶の表情も、力みもない。

ただ、夕陽を背負った少女の横顔が、この世のものとは思えないほど美しく、透き通って見えた。


「……信じられん。あれほどの瘴気を、あんなにも容易たやすく……」

隣で膝をついていた兵士が、感嘆の声を漏らす。

彼らにとって、それは「慈愛に満ちた聖女による、完璧な救済」にしか見えなかった。

その裏で、リリアが内臓を灼かれ、精神をズタズタに引き裂かれるような苦痛に耐え抜いているとは、夢にも思わなかっただろう。


やがて。

最後の一塊の瘴気が、リリアの手のひらに吸い込まれた。

――キン、と。

世界を支配していた不快な羽音が、完全に消え去る。


リリアは、ゆっくりと両手を下ろした。

カイルたちの前で、彼女は一度だけ、深く、静かに息を吐く。


「……終わりました」

振り返ったリリアの顔は、驚くほど平穏だった。

頬に一筋の汗も流さず、呼吸すら乱れていない。

まるで、散歩のついでに花を摘んできたかのような、そんな軽やかさ。

「……見事だ、聖女」


騎士たちは歓喜に沸き、救世主を見上げるような熱い視線をリリアに注ぐ。


だが。

リリアの視界は、すでに白く霞んでいた。

(……だめ。まだ、倒れちゃ……)

指先の感覚はない。

全身の筋肉は、激痛の余韻で硬直している。

胃の腑は鉛を詰め込まれたように重く、一歩でも動けば、中からドロドロに溶けた内臓がこぼれ落ちてしまいそうな錯覚に陥る。

満身創痍。

表の皮膚に傷はないが、彼女の内側は、今やズタズタに焼き払われた焦土と化していた。


「……馬車へ、戻ってもいいですか。少し、疲れました」

「ああ。当然だ。案内しよう」


カイルが歩み寄る。

リリアは、その差し伸べられた手を取らなかった。

取ってしまえば、自分の手の震えが、高熱のような体温が、彼に伝わってしまうから。

リリアは、一歩ずつ、地面を踏み締める感覚すら怪しい足取りで、それでも背筋を伸ばして歩いた。

背後から向けられる、賞賛の視線。

それを、薄氷を踏むような思いでやり過ごす。


馬車の扉を閉め、一人きりの空間に戻った瞬間。


「…………っ、……ぅ、ぁ…………!」

リリアは、床に崩れ落ちた。


自身の口を両手で塞ぎ、溢れ出そうになる嗚咽おえつを必死に押し殺す。

溢れ出した涙が、絨毯に黒いシミを作る。

熱い。痛い。身体中が、焼けるように熱い。


「……ごちそうさま、でした……っ」


震える声で、誰にも聞こえない感謝を口にする。

華やかな聖女の聖衣の下で、彼女の身体は、誰にも言えない苦痛に震え続けていた。

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