13 いただきます
馬車から降りた瞬間、暴力的なまでの寒気が、リリアの全身を貫いた。
書庫で感じたあの不快感など、今思えば微々たる予兆に過ぎなかったのだ。
大気を埋め尽くす瘴気との距離は、決して近くはない。それなのに、肌を刺す空気の一粒一粒に、毒が混じっているかのように、肺が拒絶した。
周囲を見渡せば、地獄の様相が広がっていた。
精鋭であるはずの五十名の兵士たちは、必死に剣を構えている。だが、その足元は抑えきれずに震えていた。
中には構えることすらできず、真っ青な顔で膝をつき、激しく嘔吐している者さえいる。
まともに立っていられる者は、数えるほどしかいない。
その筆頭であるカイルは、平然とした顔で剣を正していた。だが、その額にはじわりと脂汗が滲み、握りしめた拳には血管が浮き出ている。
超人的な精神力を持つ彼らですら、瘴気が放つ「死の重圧」の前に、一歩も動けずにいた。
(……私だけ)
(私しか、進めないんだ)
リリアは、震える足を踏み出した。
その瞬間、地面に足がついているのかさえ分からなくなった。
視界がぐにゃりと歪み、景色が溶け出す。
まるで、波打つ荒海の上に立たされているかのような、強烈な目眩が脳を揺さぶる。
また一歩、進む。
さらに目眩が深くなる。
胃の底からせり上がる、酸っぱい吐き気。
気を抜けば、その場に崩れ落ちて全てを吐き戻してしまいそうだ。
指先から爪先まで、尋常ではない震えが止まらない。
リリアがその全身で感じ取っていたのは、ただ一つの純粋な「死」だった。
倒れそうだった。今すぐ叫びながら逃げ出したかった。
けれど、もし今ここで自分が背を向けてしまったら。
恐怖に耐え、自分をここまで送り届けてくれた騎士たちは、どうなってしまうのか。
スラムでは、誰も助けてくれなかった。
倒れた者は、そのままゴミのように打ち捨てられるのが当たり前だった。
けれど、今は違う。
背後に感じる、必死に耐える男たちの気配。
それを切り捨てて逃げることだけは、どうしてもできなかった。
何事もないように。
リリアは、ゆっくりと、確実な足取りで歩を進める。
一歩踏み出すたびに、内臓を素手で掻き回されるような異常な不快感が襲いかかってくる。それでも、彼女の顔から表情は消えていた。
そして、ついに。
リリアは、世界を腐食させる「瘴気の核」と相対した。
呼吸をするだけで、肺が、細胞が、内側からボロボロに朽ち果ててしまうのではないか。
そう思わせるほどの、理屈では測れない、圧倒的な“死”。
浄化の仕方なんて、知識のどこにも書いていなかった。
どうすればいいのか、何をすべきなのか、何一つ分からない。
なのに。
「……っ」
ごくりと、喉が鳴った。
恐ろしいはずなのに。逃げたいはずなのに。
リリアの身体の内側から、説明のつかない「衝動」が突き上げてくる。
それは、かつてスラムの路地裏で、空腹に耐えかねて泥水に手を伸ばした時のあの感覚に、酷く似ていた。
――ノドガ、カワイタ。
自分でも信じられないような、どす黒い「飢餓感」。
この世の終わりのようなおぞましい瘴気を前にして、リリアの魂はあろうことか、それを「喰らうべきもの」として認識していた。
震えていた指先が、ぴたりと止まる。
怯えていた瞳に、昏い光が宿る。
「……いただきます」
掠れた、誰の耳にも届かない小さな呟き。
それが、真実の聖女が初めて放った、浄化の宣誓だった。




