12 生ゴミ
馬車の一定した揺れが、リリアの身体を無機質に揺さぶり続けていた。
カーテンの隙間から覗く窓の外は、見たこともない景色ばかりが通り過ぎていく。
帝都の整えられた石畳や華やかな街並みはとうに消え失せ、窓から入り込む空気には、土と草の生々しい匂いが混じり始めていた。
どれほどの距離を、どれほどの時間をかけて進んだのかも分からない。
ただ――連れてこられている。
逃げ場のない箱に詰め込まれ、ただ運ばれている。
(……いやだ)
リリアは、震える膝を折ってぎゅっと抱え込んだ。
あの時、書庫で感じた不快感が、今も身体の奥底にどろりと沈殿している。思い出しただけで、喉の奥が焼けるようにひりついた。
瘴気。
この世界を蝕み、生命を根絶やしにする呪い。
それがどんな形をしているのか。触れればどうなるのか。
何も分からないまま、その中心地へと刻一刻と近づいている。
ぞわり、と背筋に冷たい粟が立った。
身体が、本能が、勝手に拒絶反応を繰り返している。
行くな、と。関わるな、と。
スラムという、常に死が隣り合わせの地獄で培った生き残るための勘が、過去最大級の警鐘を鳴らしていた。
(……こわい。逃げたい。今すぐにでも……)
小さく、震える吐息を漏らす。
できることなら、このまま馬車を飛び出して、あの静かな書庫の隅へ戻りたい。
何も知らず、ただ「リル」として、泥水をすすってでも明日を繋ぐことだけに必死だった、あの過酷な日々へ。
あそこは地獄だったけれど、少なくとも「自分の命」だけを考えていればよかったのだから。
けれど。
(……私が、やるしかない。……分かっちゃったから)
感じてしまったのだ。
あの澱みが、この世界にあってはならない猛毒であると。
「聖女」という不本意な役割を押し付けられた結果、それを見過ごすことができないほど鮮明に理解してしまった。
一度知ってしまった以上、もう、地獄にいた頃の自分には戻れない。
馬車が、大きく跳ねるように揺れた。
外からは、規則正しく地面を叩く蹄の音が聞こえてくる。
ちらりと窓の外へ視線を向けた。
馬車と並走する、一際力強い影。
――カイルだった。
荒れた路面を進む馬上にあっても、その姿勢は微塵も崩れない。
ただ一点、前方の地平だけを見据えている。
その横顔には、迷いも、死への恐れも——何もなかった。
(……すごい。どうして、あんなふうにいられるの…)
同じ地獄へ向かっているはずなのに。
なぜ彼は、あんなにも冷徹に、毅然としていられるのか。
分からない。その強さが理解できないからこそ――余計に、彼という存在が恐ろしかった。
その時だった。
唐突に、馬車が急停止した。
がくり、と前のめりに身体が揺さぶられる。
「到着だ」
外から、カイルの短い声が響いた。
その一言だけで、周囲の空気が一変した。
重い。
湿り気を帯びた、どろりと淀んだ気配。
吸い込む空気が肺にまとわりつくようで、思わず息が詰まる。
(……いる)
どっと汗がふきだした。
(すぐ、そこに)
視覚で捉えるより先に、魂が叫んでいた。
“それ”が、すぐ近くで鎌を首筋に当てていると。
リリアの指先が、目に見えて激しく震え始める。
恐る恐る、震える手で窓のカーテンを押し広げ、外へと視線を向けた。
そして――リリアは、絶句した。
そこにあったのは。
光景そのものを、歪める「異物」だった。
遠くに見えるはずの地面が、陽炎のように不気味に揺らいで見える。
空気は鉛のように濁り、本来届くはずの陽光が、どす黒い雲に遮られたように沈んでいる。
まるで、世界が、そこから腐り始めているかのような、悍ましい光景。
「……な、なに…あれ……」
掠れた悲鳴が、唇からこぼれ落ちる。
知識では知っていた。文献には書いてあった。
けれど。
目の前のこれは――言葉で片付けられるようなものではない。
理解より先に、細胞の一つ一つが拒絶する。
本能が、あれは絶対に触れてはいけないものだと、関われば最後、自分という存在が消えてしまうのだと叫び続けている。
それでも――。
「……っ」
リリアは、目を逸らすことができなかった。
あの歪みを、あの腐敗を、どうにかして食い止めなければならない。
自分にしかできないことが、そこにある。
そう、残酷なまでに分かってしまうから。
リリアは震える身体を抱えたまま、ゆっくりと、地獄の門を開くように馬車の扉へと手を伸ばした。




