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11 提供

書庫には、いつもと変わらぬ静寂が満ちていた。

だが、その静けさが今は、リリアの不安を際立たせる装置でしかなかった。


リリアは自分を抱きしめるようにして、震える両腕をさすっていた。

先ほど感じた、あの泥を飲まされるような不快感。

全身の毛穴が逆立つようなおぞましい予感が、今も身体の奥底にどろりと居座っている。


(……こわい。なんなの、あれ……)


理由は、知識として頭に流れ込んできたばかりだ。

――瘴気。

この世の理を捻じ曲げ、生命を腐らせる呪い。

ついさっきまで文字の上だけの存在だったその言葉が、今は、喉元に突きつけられた刃のような現実味を帯びていた。


「おい。顔色、まだ真っ青だぞ」

低い、けれどどこか落ち着く声がした。

顔を上げると、壁にもたれかかったゲルハルトが、少しだけ眉を寄せてこちらを見ていた。

「……大丈夫、です」

小さく答える。

本当は、全く大丈夫ではない。

けれど、この内臓を冷たい手で掴まれているような感覚を、どう説明していいか分からなかった。


その時だった。


――コツン、と。

硬質な足音が、書庫の静寂を容赦なく切り裂いた。


一歩。また一歩。

規則正しく、一切の迷いがない。

その音だけで、書庫の空気が目に見えて変質していくのが分かった。


ゲルハルトの視線が、わずかに鋭く細められる。

「……来たか」

ぽつりと、彼は誰にともなく呟いた。


重厚な扉が開かれた。

入ってきたのは――カイルだった。


一切の無駄を排した歩み。

周囲を威圧するような動作は何一つない。それなのに、彼がそこに「在る」だけで、空間が張り詰め、皮膚がぴりぴりと痛む。


リリアの喉が、ひくりと鳴った。


(……こわい)


あの訓練場で見かけた時と同じだ。

視線を向けられる前から、生存本能が「逃げろ」と最大級の警鐘を鳴らしている。


カイルは一度だけ書庫全体を俯瞰し、すぐに視線を一点に定めた。

リリアへ。


――一瞬。

ただの「確認」でしかない視線。

温度も、感情も、一片たりとも含まれていない。

対象を特定し、確認を済ませる。それだけの時間が過ぎると、視線はすぐに外された。


「聖女」


名ではない。

呼びかけですらない。

ただ、その場にある「役割」を記号として呼称しただけ。


「出るぞ」


それだけだった。

説明も、理由も、承諾を得るための間もない。

命令ですらないはずなのに、逆らう余地を微塵も与えない。氷のくさびを打ち込むような声音だった。


「……え」

思考が追いつかない。

出る? どこへ?

混乱した問いが形になる前に、カイルの唇が動いた。

「浄化に向かう。準備はすべて済んでいる」

既に決定事項として、物語はリリアを置いて進んでいた。


「……今、から……?」


掠れた声。

カイルは答えない。答える必要がないと判断したのだ。

代わりに――彼は、一歩、リリアへと近づいた。


それだけで、逃げ場が消える。

カイルから放たれる圧倒的な「強者」の圧力が、リリアを椅子の背に縫い付けた。

「行けるな」


問いの形をしている。

だが、そこには「否」という選択肢など、初めから存在していなかった。

リリアの指先が、膝の上で激しく震える。


怖い。行きたくない。

昨日まで文字も読めなかった自分が、そんな恐ろしい「災厄」の前に立たされるなんて。

叫び出したい。拒絶したい。


けれど――。


あの、内臓を腐らせるような不快感を思い出す。

自分一人がここに残って、この静寂に閉じこもっていても。

あのよどみの先では、今まさに誰かが絶望の中で死にかけている。

聖女の能力がもたらした「実感」が、リリアの心に重くのしかかった。


「……はい」


消え入りそうな声で、それでも、リリアは頷いた。

その返答を聞いても、カイルの表情は一つも動かなかった。

安堵も、賞賛も、労いもない。

ただ、踵を返す。


「ついて来い」

それだけを残して、カイルは歩き出した。

振り返らない。

当然のように、背後に従うことを前提とした歩み。

リリアは一瞬だけ立ち尽くし――。

置いて行かれる恐怖に駆られるように、慌てて立ち上がった。


「……気ぃつけろよ」

すれ違いざま、ゲルハルトが低く呟いた。

振り向くと、そこにはいつもの軽い調子を消した、真剣な眼差しがあった。

「……はい」

小さく答えるのが精一杯だった。


リリアは、カイルの冷徹な背中を追う。

遠ざかる書庫。

ここ数日、ようやく手に入れた「静かで安全な場所」。

そこから、否応なしに引きずり出される。


――戦場へと。

聖女という名の、生贄のような役割を背負わされて。

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