46.犬は病気の肉を喰わない
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熾との攻防は苛烈を極めた。
熾の手のひらが顔面に近づくと、腕をはたき軌道を逸らす。そのまま手のひらは頬を横切るが、はたいただけなのに手には衝撃が残った。
こちらが攻撃しようとすると、それを見逃さず熾は掴もうとしてくる。直でなくともあの怪力に接触するのは不味い。寸前で間合いの外に出て回避した。
あの手のひらにはおそらく触れない方がいい。
遺体の状況に露骨に触れようとする動作。怪力といい、病に冒す手段といい、別の決め手を隠す誘導かと警戒していた。
だが、今のところその気配はない。下手に広範囲の攻撃手段があれば千歳に影響がないように立ち振る舞うことを考えていたが、今のところはこちらに釘付けに出来ていれば十分そうだ。
千歳はあれから結界の解除に集中している。罠にかかったという発言が気になっているが、余程の事態になっていないことを祈るしかない。
普段呪術士と戦うときの、手に触れない定石を守れば病の方は問題ないだろう。
だが、それ以上に考えないといけないことがあった。
左腕の義手に視線を移す。千歳の結界で強化しているとはいえ、全体に亀裂が走っている。あの怪力を逸らすだけでこの状態になっている。これ以上の長期戦は、腕が壊れる可能性がある。義手が壊れて、あの怪力が直撃すれば間違いなく死ぬだろう。
今は腕の替えはない。かといって私は熾に対する決定打が欠けている。
あの手のひらの影響で、掠ることも避けようとすると急所が狙いづらい。そして、いくら殺せる可能性があるからと言って、急接近して噛み付くのは自殺行為だ。
何より、彼女にも人としての人生はあったはずだ。それを考えると、自我を持っている分、殺しは避けられるのではと思っている自分がいる。
そうした決定打が得られていないのは向こうも同じ。私を殺す必要がないとはいえ、倒されることは流石に避けたいはずだ。そのためには、手段を選ばずこちらを行動不能にしてくるはずだ。
そんなことを考えていると、彼女は突然手を下げた。時間稼ぎが終わったのかと思ったが、そんな訳ではなかった。
「何で、殺意がない?」
「むしろ、殺す必要があるの?」
「アタシは、何人も、殺したことがある。殺されて、当然」
「そんなことが言えるなら、やり直せると思う。私だって、人を、恩人を、殺したことがある」
私は、本来であれば他人に言わないことを言った。自分が背負っている罪を共有するなんて、珍しいことをしたと我ながら考える。きっと、彼女に自分を重ねたところがあったのだろう。
それを聞いた熾の様子が変わる。
「……やり直せる? アタシが?」
「そう、自分の意識がちゃんとあって、善悪の区別がつくなら……」
「……奴の手も借りずに、のうのうと、生きていけるアンタが、アタシの気持ちが、分かるとでも?」
そう言った彼女から、ピリピリと伝わる殺気。面の下から滴り落ちる赤黒い液体が、彼女が吐くことを我慢していると察せられる。
そして、彼女は大きく地面を踏みしめた。地震が起きたのではと思うほどの衝撃。ここで私は気付く。この下には空間がある。そんな場所で、人外の力で踏みしめればどうなるか。
熾の足元を起点に、亀裂が全体に広がっていく。足元が崩れ、私たちは全員まとめて落ちていった。
体勢を崩す中、熾は私に接近した。私は咄嗟に地面の瓦礫を熾に蹴り飛ばす。彼女は左手で瓦礫を弾き、右手で私の顔を掴もうとした。
私は何とか左腕の義手で彼女の右手を、右手で彼女の左手首を掴む。
そのまま押し倒されそうになるが、寸前で彼女の頭部を垂直に蹴り上げた。
僅かに面に亀裂が入り、熾がやっと戸惑いを見せる。
地面が崩れるのが止まる。私は姿勢を維持して、傷を負うことはなかった。だが、千歳のことを考え、千歳がいた方向を確認した。
千歳は地面が崩れるのに対応できなかったのか、倒れたまま動かない。すぐさま倒れている彼女の元へと向かった。
「こんでええって言ったやろ……」
千歳は右目から血を流し、地面が崩れた影響か左足が折れていた。熾は面の亀裂を気にしているようで、幸い近づく様子がない。この隙に出来るだけの介抱をすることを選択した。
瓦礫の中にあった手頃な木材を足に当てて縛る。痛みを堪えながらも、彼女は素直に礼を言う。
「丁度結界は解けたんやけどな……。ああ、この目はさっきの罠の影響や。足も目も、真奈が気負う必要はないで」
そうは言ったが、私の中には安堵と共に、別の感情が湧いていた。
ナズナが射られたときとは違う感覚。あの時は衝撃の方が強かった。
だが、今回は百年以上一緒にいた親友が傷つけられた。
何より、千歳を守れなかった自分に、友人を二度も守れなかった自分に腹が立った。
結界を解除出来ている以上、これは時間の無駄だ。そう分かりきっているが、止められなかった。
私はゆっくりと立ち上がり、熾の方を見る。
彼女もこちらに気付くと、面越しから怯えが見えた。
後ずさりする熾。それを無視して、私は瓦礫の中を進む。
一歩進む。全身が熱い。
更に一歩進む。周囲が鮮明に感じ取られる。
次の一歩で、大きくしゃがみ込み、突進の構えを取った。
頭を下げた瞬間、自分の右手が見える。獣のそれに変わったそれを見て、私がまたあの獣人の姿に変わったのだと自覚した。
熾へと飛びかかり、熾はそれに対応しようとする。だが、触れようとする両手は手首を掴んで封じ、そのまま力任せに押し込み壁へ叩き付けた。
そして、横方向へ押し倒すように投げつける。
熾が体勢を整えようとする一瞬で、前蹴りを繰り出した。
熾に防がれるが、彼女は勢いを殺すことができず、また壁まで吹き飛び背中から叩き付けられる。
その衝撃の影響か、熾は右腕が不自然な方向に曲がっていた。
私は息を荒げながら、熾の方向にまた足を進めようとする。
だが、このままだと、殺してしまう予感がして、私の足は止まった。
そして、熾に対して違和感を覚える。熾から、今まで感じていた敵意がなくなっていた。
何故なのか考えていると、また笛の音が周囲に響く。最初の笛の音とはまた別の音色。
何が起きているのかと考えていると、熾はその隙に蔵から逃げ出していた。追うことを考えたが、今は優先するべき事じゃない。
私は千歳に駆け寄り、改めて状況を確認する。
「真奈、人の姿に戻っとんな。……なあ、その右手、どないしたん?」
千歳は私を見て安堵していたが、私の手を見て様子が変わる。
私は、自分の右手を見た。殆どが人の姿に戻っている。
だが、小指だけが、獣のように毛で覆われ、爪も獣のまま残っていた。




