36.巣にかかる餌
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胸元を押さえる。あの牛頭馬頭に砕かれた肋骨が完全に治っていた。つくづく、自分の人外性に嫌気が刺す。
日が沈んだ中、暗闇で足を進めた。山中に落ち葉や枝を踏み折る音が定期的に響く。
木々の隙間から獣がこちらの様子を窺う。襲うに値する存在か見極めているのだろう。
唯一明かりとなるのは星と月の光のみ。枝葉の隙間から漏れるそれは、破れた障子から覗く目玉を思わせた。
周囲の気配に気を配り、罠がないことを確認する。
篠坂家にはもうそろそろ着く。だが、ここまで何もなさ過ぎて逆に気持ち悪さを覚えてしまう。
もしかしたら、気付いていないだけで感知用の結界が隠されていたのかも知れない。
夜風は少し肌寒い。さっきまで誰かといたのが遠い昔のように思える。
俺は真奈たちの顔を思い出す。彼女たちは妖怪にしては珍しく善性を持っている。
人妖の発生は珍しい。正確な発生理由も分かっていない。大抵その場で殺してしまうような存在だが、このような例外を見てしまうと発生理由を知りたくなってしまう。
妖怪が本能的に持つという凶暴性。おそらく彼女たちはそれが薄いか、何か別の物に昇華させている。
もし、彼女たちの凶暴性が解放されて、敵対したらどうなるか。
まず、真奈は普通には殺せない。考え無しに殺してしまうと、俺でも乗っ取られてしまうだろう。
聞いた話から考えると、犬神の儀式に沿えば殺せる可能性がある。しかし、人型の真奈を相手にしてそれが出来るとは思えない。
普通の殺害ではなく、毒なら条件を突破出来るだろうか?
いや、乗っ取られない確証がない。おそらく効くが、試すにしても危険すぎる。
彼女の素の身体能力も相当に高く、それなりに実戦経験も積んでいる。それであればこちらも高い階級の者を出さざるをえない。
それでいて殺せないとすれば、小徳以上が数人がかりで封印してしまうのが妥当だろう。
特に、結界や封印術に長けている者を用意する必要がある。少なくとも、彼女がこちらを殺す気であれば、俺一人だけだとかなり厳しい。
次に、千歳の対処方法を考える。
こちらはより厄介だ。結界術と封印術に長けた人妖というだけで、まともに相手していい存在ではない。手札をどれだけ持っているのか分からないのだから。
最初に戦った時に、想定以上の速度で結界を破壊された。あの結界は簡易的とはいえ、最新の理論で構成されている。中身を知っている自分でも破壊には時間がかかる。それなのに、あの速度で破壊してきたのは、並外れた解析能力を持っていることに他ならない。ただ結界を張ったり封印をする存在よりも厄介かも知れない。
あの時はその影響で、真奈を殺して、そのまま千歳も殺す算段が完全に崩された。
そんな相手であれば、封印や結界に閉じ込めることもできない。何かしら厄介な術を扱う前に、殺すしかない。
思考を巡らせていると、木々の奥に星以外の光が見えた。それが松明や焚火のような炎であることが分かる。
重々しい屋敷も僅かに見える。篠坂家だ。
このまま侵入することを考えるが、念のために現状を再確認する。呪符はまだ余裕がある。刀は赤熱の術を使った影響で少し痛んでいるだろう。犠牲術はまだ扱えるだけの寿命と体力的余裕がある。
朽花があの場にいる可能性がある。相手は何百年も生きている化物だ。そう考えると、なるべく万全を期したい。
ふと、目の前の木陰で何かが動いた。
人ほどの大きさのそれが、徐々に大きくなる。月明かりの下で、その正体が明らかになった。
まず目についたのは、木彫りの面。頭には布を被り、肌の露出は殆どない。衣類はとても清潔だとは言えず、ところどころ裂けているのが見える。
性別は確認は持てないが、歩き方と胸の僅かな膨らみから女かと推測した。
周囲の暗さも相まって、亡霊か何かかと思えるような風貌であった。
明らかに普通ではない存在に、俺は刀に手をやる。
「何者だ?」
俺の問いに仮面の女は答える事はない。
ただ無言で、女は裾から手を伸ばす。その両手には籠手が嵌められていた。
女が右手を握りしめた動きの直後、凶器を突きつけられる感覚に陥る。何も持っていないのに、それが何よりも危険である予感。
女がしゃがみ足に力を込める。距離はそれなりに離れているのに、もうここは安全圏ではないという確信。
予感と確信は両方当たることになる。
女は地面を砕く勢いでこちらに急接近する。想定以上の速度で、眼前に立つことを許してしまう。そのまま振りかぶられる右手を避けると、背後の木の幹の半分がそのまま砕け散った。
あの牛頭馬頭に匹敵するかと思われるほどの怪力。そこから生み出される速度と破壊力は単純ながらも脅威。
幹を半分失った木が、バキバキと音を立て、他の枝をへし折りながら倒れる。奴と距離を取りながら、頬に冷や汗が流れてきた。
距離が近づいたことで見えた仮面の奥の目。赤茶けたそれはこちらをまばたきすることなく見据えている。
コイツは人妖だ。衣類に術がかかっていた影響で、判別が遅れた。
見た感じ、ハッキリとした自我を保ちながら、明確な意思を持ってこちらを攻撃してきている。
おそらく、これが朽花の人妖実験の完成体と見ていいだろう。あの牛頭馬頭はどこか不安定さがあったのに、こいつにはそういったところが今のところない。
とてもではないが、接近戦をしていい相手ではない。
刀を引き抜き、片手に呪符を握る。けん制も兼ねて呪符を一枚投げつけてみるが、木の陰に隠れられてしまう。
ここまではいい。あのまま対面しているとやりづらい。
隠すように呪符を数枚落とし、自分の身を守る結界を張る。あの怪力であれば防げて1回。だがそれで十分だ。
刀を低く、身体の前へと置く。切っ先は膝の高さほど。どこから攻撃が来ても対応できるように準備を進める。
木々の間を走り抜ける音。風の音もあり、どこから音がしているのか判別は困難だ。
感覚を研ぎ澄ませ、息を大きく吐く。まばたきすることすら忘れるほどの集中。そして、その時が来た。
背後からの強襲。だが、それは結界によって防がれる。結界に大きな亀裂が入り、そのまま砕け散った。
その手にはもう勢いはない。俺はそれに併せて迎撃し、奴の右腕を切り落とした。
仮面の女は少し声を上げるが、引くことはなかった。
女は残った左腕でこちらの右手を掴む。俺は力を込められるよりも前に、奴の腹部を蹴り上げ、手を離させることに成功した。
ここで違和感を覚える。女の両手は、どうしてか籠手が外されていた。一瞬しか見えなかったが、黒ずみ荒れた冷たい手だった。病気を思わせるそれは、不吉なものの印象を抱かせてくる。
女はこちらの右手をしばらく見た後、落とされた腕を拾い上げる。血を止めることもなく、こちらを一瞥もせずに走り去ってしまった。
女をそのまま追おうとするが、その直後に右手に違和感を覚える。僅かな痛みと、熱さ、痒み。
触れられた部位であったので、無視もできず確認する。すると、右手には小さく黒ずみと水疱が現れていた。
それはまばたきするうちに大きく広がっていく。何かの呪いか何かだと判断した俺は、木の幹に刀を突き刺した。
このままだと全身に広がる可能性が高い。そうなってしまえば、どんなに俺でも詰んでしまう。
そうこう準備をしているうちに、黒ずみと水疱が徐々に上がってくる。もう一刻も猶予がない。考える暇はない。
俺は、歯を食いしばりながら、幹に固定した刀に向けて右腕をそのまま振り下ろした。
腕の断面が、焼けるように熱い。声にならない叫びが小さく漏れる。地面に赤い液体がこぼれ、土を赤黒く染めていく。
断面を左手で押さえ、何度も何度も大きく深呼吸する。腕の痛みを抑えると同時に、俺の中では頭痛と精神的苦痛が襲いかかってきていた。
かつて殺した誰かが、俺を責め立ててくる。名前も分からないのに、罪悪感に苛まれ、頭も痛い。
頭部を押さえたいのに、それ以上に腕を押さえないといけない。
噛み締めながらも、俺は犠牲術を起動した。全身に文様が浮かび上がる。再生能力が上がったことで、傷口から血が徐々に止まる。
このままでは潜入なんてとてもではないができそうにない。腕の再生には丸一日かかるだろう。
切り落とした腕に目をやる。その腕は真っ黒に染まり、水疱に覆われ、原型がほとんど残っていなかった。自分の肉体は今のところなんともない。腕を切り落とさなければ全身がああなっていたのかと思うと、背筋が凍る思いだ。
あの女は、この呪いの影響でおそらく俺が戦闘不能になると確信した。そして、奴自身の腕の負傷。追撃せずに立ち去った理由としてはこんなものだろう。もし生き残ったとしても片腕がないのは確定するのだから。
怪力だけでなく、素手で触れられた時に付与される呪い。ここまで強力な人妖は見たことがない。
あの女はただの朽花の手足のはずだ。アレを倒してもまだ朽花がいる。つくづく、一筋縄ではいかない存在だと思い知らされた。




