35.盲人の尋ね
背筋が冷え、鳥肌が立つ。冷や汗が額から流れ、顎から一滴落ちるのを感じた。
相手は呪術士ではない。妖怪でもない。ただの人間としか認識していない。
なのに、ここまでの威圧感を覚えたのははじめてだ。
腕の立つ武士が相手でもこうなった記憶はない。
呪術士でない人間が妖怪を倒した事例は何度も聞いたことがある。だが、大抵は集団で戦ったという話だ。
一人で妖怪複数体を相手取れる人間の話を、私は知らない。
前から怪しい雰囲気はあったが、これほどとは思っていなかった。
「こっちの山には最近人が入っとらんのに、よく歩けんな?」
「ん? ああ、見えていなくても、オレは見えている」
甚兵衛の発言はまるで答えになっていない。
千歳も流石に「何言っとんねん」とぼやきだす。
ここは一旦、彼にはそのまま何か認識する手段があると判断しよう。深く考えても理解できそうにない。
千歳もおそらくそういった力を持つ存在の心当たりを探している。私もずっと考えているが、何も思いつかないでいた。
彼は腕を組み、余裕そうにこちらに問う。
「山奥に妖怪が一体いただろう? 牛と馬の被り物をした奴だよ。アレはどうしたんだ?」
「……倒した」
私の言葉を聞いた甚兵衛は少し固まる。首をかしげ、白い目がこちらをじっと見つめる。
その後、彼は口を押さえ、堪えるように笑い出した。
「アレを? 倒した? はは、冗談にしても笑えるな。あんな化物が死んでいるはずが……」
そのまま、彼の顔から徐々に笑みが消えた。何に気付いたのかは定かではない。真顔になった彼は、小さく呟く。
「……本当に倒せるんだ。……ならそれなりに真面目にやろうか」
抜き身の刃物を突きつけられているかのような感覚。
彼の小さく低い声がはっきりと聞こえる。
そして、目の前から彼の姿が消えた。正確には、異常に速い速度でこちらに近づいていた。
彼の足が私たちの目の前で止まる。
その右手の手刀が、千歳に向けて突き出された。
静かな殺意の込められた槍と言えるそれを、私は彼の手首を掴んで寸前で止める。
ギリギリであった。まばたきほどの一瞬でも反応が遅れていれば、甚兵衛の手刀は千歳の喉元を捉えていただろう。
腕を掴まれた甚兵衛は、瞬時に私に裏拳を仕掛ける。
私はそれを避けると、甚兵衛の腕を折るために左腕の義手を叩き付けようとした。
だが、今度は甚兵衛が義手の手首を掴んで止める。
次に甚兵衛は左足で私の右腕を横蹴りし、力が僅かに緩んだ隙に彼は拘束を脱出した。
距離を取った甚兵衛は腕を確認すると、掴んでいた部分が大きく痣になっていた。それなりに強く握った影響だろう。肉体の強度自体は他の人間と大差はないように思えた。
甚兵衛が右手を握り込もうとするが、手は震え、速度が明らかに遅い。
「千歳、自分の身は守ってもらっていい?」
「言われんでもやるわ。あとさ、多分あいつが何者か分かったで。修験者やと思う」
修験者。山奥で修行をし、悟りを開こうとする者の総称。
甚兵衛が昔山奥で暮らしていたという話。彼が持ち歩いている数珠。確かに、状況的には納得できた。
修験者の中でも、ごく稀に不可思議な力に目覚めた者がいると聞いたことがある。
「確か、神通力だっけ?」
「……まあ、隠す気もないし言ってしまうか。修験者だったのは昔の話だ。
神通力……ねえ。
いつも思っていたんだ。同じ修行をしているはずなのに、何故オレ程度ができることが、周囲はできないんだろうなって。
最後には妬みからか闇討ちされ視力を失った。あの程度の奴らのせいで、オレは修行ができなくなった」
「自分語りするとか構ってちゃんなんか?」
「お前が言えた口じゃないだろ。嘘つきの匂いがするんだよ。
……一応確認するが、お前ら人妖だな?
正直、はじめて見た。普通の妖怪を殴り殺すよりは、面白そうだ」
その瞬間、また甚兵衛は高速で移動する。並外れた動体視力を持っていなければ、瞬間移動をしていると感じるだろう。
私たちの背後に移動したことを察知した私は、反射的に背後に回し蹴りをする。
それは甚兵衛の右腕によって防がれた。だが、彼の顔は苦しそうに歪んでいたのを見逃さなかった。
私と甚兵衛は千歳を挟むように位置取り、私は右手を主体に、甚兵衛は左手を主体に攻防を繰り返す。
互いに急所には当てられない互角のやり取り。掴むようなことも許さず、距離を詰めようにも離れようにも間に千歳がいてできない。
「人の頭の上で殴り合うなアホ共!」
しゃがみ込んだまま動けない千歳からの叫び声。
埒があかないと判断したのか、甚兵衛は一旦距離を取ってきた。
また、高速移動で姿を消す。今度は撹乱を狙うためか、わざと地面の落ち葉を舞い上げながら高速移動を繰り返していた。
風と共に土の匂いで周囲が覆われる。狙ってなのかどうかは分からないが、目と鼻が実質潰されていた。
この状態では今度は防げるか分からない。
相手の能力について推測する。
肉眼以外に何か視界を確保する力を持っている。だが、どういった風に見えているのか分からない。
今視界を遮られていることから、隠れてもあまり意味がないだろう。
次に高速移動はどうだ?
まず攻撃するときは止まるのは分かっている。攻防で使ってこなかったことから、高速に出来るのは足だけなのか?
高速移動しながら攻撃もしてこない。何か理由があるのだろうが、情報がない。
推測から攻略の糸口が見つからない。
私だけであれば、ここで何もできず殺されていただろう。
だけど、ここにはもう一人いる。結界術の達人が。
落ち葉が完全に落ちたとき、攻撃が来ることはなかった。私が背後を向くと、甚兵衛は周囲を見渡しながら直立していた。
「落ち葉を舞わせたのは、失敗だったかな?
呪符もついでに舞わせていたのは、見えていなかった」
甚兵衛の四方を見ると、落ち葉に紛れて呪符があることに気付く。
甚兵衛は見えない壁をコンコンと軽く叩き、脱出ができない判断をしていた。
「貴重品の呪符を使わせたんや。誰の差し金か言えば出してやってもいいけど?」
「なんで足手まといを連れているかと思ったら、そういうことか。
無理をしてでも先に潰しておくべきだったかな?」
甚兵衛はそう言うと左手を握っては開きを繰り返す。まるで、何かの調整をしているかのように感じた。不穏なそれに、思わず千歳に声をかける。
「千歳、話を聞くより先に封印なりした方がいい」
「え? なんで?」
「結界術については知っているよ。力技では早々壊せない。それには常軌を逸脱した怪力や破壊力が必要になる。正規の解除も破壊も、結界の知識が必要不可欠だ」
甚兵衛は何かを言いながら左手を手刀の形にする。それを見た私は寒気を覚え千歳を掴んで結界から遠ざけた。
「修験者が修行の末に得られるのは神通力だけじゃない。結界の破壊手段は、他にもある」
その手刀で結界を突く。手は結界を貫き、空間に亀裂が広がる。
千歳がただ一言、「はぁ!?」と呟く。ただ一言なのに、声は震え、いつもの彼女の調子とは全然違っていた。
甚兵衛は左手で結界の縁を掴み、押し広げるように穴を広げる。薄い石が割れるような音と共に、彼は結界から脱出した。
周囲を満たす緊張感。次の攻撃をどう防ぐか考えていると、甚兵衛はため息をついた。
「ひとまず、もうやめておくよ。ここまでしぶといとは思ってなかった。そもそも、アレと戦ってここまで傷が浅いのも想定外だ」
その発言に、私たちは拍子抜けした。甚兵衛はそのまま下山する方向に歩き出し、言葉を続ける。
「この装備だと、殺すのに時間がかかりすぎる。妖怪相手に体力勝負はしたくない。
ああ、そうだ。お前達はこれから下山するだろうけど、一河さんは何も知らないよ。オレが事前に伝えていた台本に沿って貰っていただけだ。ただの農民で、尋問しても意味はない。
それじゃあ、お前達が生きていれば、また殺しに行くよ」
その言葉を最後に、甚兵衛は姿を消した。




