寒(2)
午前中の太陽の光を浴びる事が、生き物としての至福の時なのだろう。寝室に広がっている明かりは、たまに影を作りながら、白い物の本当の白さを教えている。
保はベッドの上に座ると、暫く惚けていたが、瞳が目の前に柔らかそうなタオルを持って来ると、それを受け取った。
「顔を洗って来て下さい。スパゲッティが伸びちゃいます。あっ、タオルは、洗濯機の中にお願いしますね」
落ち着く為だろうか。瞳はそう言うと、足早に寝室を後にする。
保は、畳んでいたズボンを穿くと、上半身だけ伸ばして、立ち上がった。食事が出来ているのなら、急いだ方が良いだろうし、瞳の妹も来るのだから、不恰好な姿を晒す訳にはいかない。考えても答えの出ない事は、今は、考えないのが正しいやり方だ。
保は寝室を出ると、コーヒーメーカーへカップをセットしようとしている瞳に、もう一回ちゃんと挨拶をして、脱衣所へと向かった。
洗面台の前まで来ると、蛇口を回して水を出し、精一杯の気持ちで顔を洗う。体の所々がまだ痛い。タオルで顔を拭くと、ロングTシャツを少し捲し上げて、体を確認する。手のひら部分で押さえつけられた箇所は、歪な丸の形に変色していた。
打撲程の色では無いが、この色も今だけだろう。多分、色は、治るという意味合いを含んで、濃くなる。少しだけ、背中に寒気が走って、保はもう一回、顔を洗った。誤魔化す事なのか、どうなのか、分からないから、一緒に排水口へ流してしまいたかった。もう一度顔を拭くと、鏡に保の顔が映る。少なくとも、昨日の顔よりましだった。深くそう思い、保は納得している。洗濯機の蓋を開け、そこへ使ったタオルを入れると、朝食を食べる為に脱衣所を出た。
瞳は、二杯分のコーヒーを入れた後、椅子に座って保を待っていた。保が、昨日と同じ場所に座ると、少しだけ気恥ずかしかったが、振り解いて、心の中に畳んだ。
「じゃあ、食べちゃいましょう。いただきます」
「うん、ありがとう。いただきます」
ありがとうに、瞳は反応して、向日葵の笑顔を保に向けた後、たらこスパゲッティの一口目を食べた。保も、たらこスパゲッティを食べる。ミラー効果というより、同じ人間である為の行動みたいだった。
苦味とアップルジュースの味に、魔法にかけられた午前10時25分。瞳は喋りながらだったが、保はポイントポイントで喋るだけで、黙々と食べ、全てを空にしていた。今は、コーヒーを飲みながら、瞳の話を聞いている。
「今日は、下着も買おうと思うんです。選んで貰っても良いですか?」
「良いけど、店内に入っても大丈夫なもんなの?」
「場所によりますね。お店によっては、駄目な場合もありますし。でも、大丈夫な所で買いますから」
なかなか、出来ない経験だから良いかと、保は思った。話は聞いたりした事はあるが、保自身はした事が無い。そんな事よりも、いつもと違う物で、気持ちを紛らわさなければならない事があるので、仕方がない。保が時計を見ると、午前10時半だった。コーヒーの後のアップルジュースが、保はいつもより甘く感じた。
「そろそろさ、妹さん来るし、準備しなくて良いの?」
「それもそうですね。保さん、先にシャワーどうぞ」
瞳は、コーヒーを飲みながら、微笑んで答えた。平静を装う保にとっては、丁度良い離れておける時間だ。
保は軽く返事をすると、食べあげた食器をキッチンへ持って行き、洗い桶に水を張って浸けた。グラスは作業台へ。いつの間にか身に付いてしまった、瞳の部屋でのルールみたいに、保は動いている。
「出かける時間はちょっと過ぎるので、暫く、妹と二人きりになりますが、よろしくお願いしますね」
ボストンバックへ着替えを取りに行った保へ、瞳が後ろから言う。保としては、別に構わないし、待つのが苦痛ではなくなるので、丁度良かった。それに、何か聞けるかもしれない。着替えを手にして、保は脱衣所へ向かいながら、瞳に大丈夫である事を伝えた。
「良かった」
瞳は、今日の朝の計画はバッチリだったなと思いながら、顔だけ少し申し訳無さそうに作って、保を見る。保は笑顔で返すと、急に立ち止まって言う。
「あっ、バスタオル」
「私のを持ってきますね」
瞳がそう言うと、飲みかけのコーヒーを置いて、寝室へ小走りで行った。昨日とは違うなと、保は思ったが、そこから、深く考える事は無い。
女性の気持ちは多様化している。ボーダーラインは分からない。ブーメランと相対性理論みたいである。
瞳は戻って来ると、保へバスタオルを渡した。綿菓子みたいなバスタオルだ。昨日の源さんへのバスタオルと、同じ呼び名では口に出来ない。保は、こんなに良い物をと、瞳に言ったが、良いんですと瞳に言われてしまい、それ以上何も言えずに、ただ、ありがとうと言って、脱衣所へ向かうしかなかった。
瞳は、保が脱衣所へ行くのを見送った後、スタートを切ったマラソンランナーのように、残りのコーヒーとアップルジュースを流しこんで片付けを始めた。食器洗いにテーブルの片付け、着て行く服選びにシャワー、それに化粧も含まれるから、やる事は満タンだ。止まることなく、ロボットアームくらいのスピードを着て、瞳は物事を片付けていく。
テーブルの片付けは、もう済んでいた。食器洗いも大半が終わり、今はフライパンを洗っている最中だ。それも終わり、所定の手順で乾かすと、そのまま収納する。
瞳は、キッチンでの作業が終わると、寝室へと移動した。着て行く物を選ぶ為だ。ここからは、今まで以上に集中力が要る。ゾーンまではいかないが、それに近いものが、そこにはあるだろう。邪魔をすると、とてつもなく怒られるし、聞いてくる時は、大抵、本人の考えは決まっている。優柔不断を持ち合わせている人は、更に面倒な話になる行為でもあった。
悩んだ末、瞳は、膝丈までのコバルトブルーのジャンパースカートに、白の襟付きブラウスに決めた。それに、薄黄色の帽子を被れば良い。
妹は、多分パンツ系だと、瞳は思った。妹と張り合っている訳では無く、お洒落な姉妹だと、保に思われたい心が動いている。
実際は、妹の方がお洒落であった。瞳にとっては、なけなしのお洒落観で必死に考えだ結果を、妹と並ぶ事によって、なんとかしようとしているに過ぎない。選んだ物も、至ってシンプルだったから、隣に誰が立っても無難なのである。
ただ、他人には真似の出来ない、容姿と体型が瞳にはある為、何を着ても似合ってしまう。何を着ても似合う為、誰も何も言わない。誰も何も言わない上に、瞳本人も無頓着な為、そちらの方の能力は頗る小さかった。妹や叔母の意見に、そのまま流されていれば、変になる事は無いので、一向に自身の力は伸びないのだ。
だが、瞳は、もう二十歳である。尚且つ、保が居るのだ。女としてのプライドが、瞳にもある。取り敢えず、決めた洋服で、瞳は納得した。続けて、着替え用の下着とキャミソールを準備し、バスタオルでそれらを挟むと、瞳はスマートフォンで妹に連絡を入れた。
ー今日は出かけるの少し遅くなりそう。ごめんね。
直ぐに、返事が来た。向こうは向こうで、着実に準備が進んでいるようだ。
ーハイハイ。いつもの事。部屋で待たせて貰うね。
瞳は、保と二人きりにしてしまう事を、妹には伝えていない。それについても、瞳は、妹に聞いてみる。
ー私、シャワーまだだから、二人きりにさせてしまうけど、大丈夫かな?
どんな返事が来るか、瞳は内心ビクついていた。スマートフォンの裏が、手汗でベタつく。
ーはぁ?仕方ないな、話し相手くらいにはなるから。お姉様の為に。
直ぐに、瞳は、何か奢れという意味だと理解した。いつもの手口である。
ーごめんね。よろしく。埋め合わせはするから。それで、何時に着く?
もう、午前10時55分を過ぎていた。秒針が、目盛りのハードルを越えていく。
ー後、5分くらい。
リビングで音がした。保は、シャワーを終えたようだった。
ーわかった。先に紹介してからシャワーするからね。
ーハイハイ。
間髪入れずに返ってきた返事を、見るか見ないかぐらいで、瞳は、スマートフォンの画面を黒くした。着替えを持って、リビングへと行く。
保は、歯磨きセットとパジャマなどを、ボストンバックへ入れている所だった。瞳に気がつくと、保が言う。
「バスタオルは、大丈夫だったから取ったからね。後、物干しスタンドは、少しずらしておいた。あそこじゃあ、また、湿気っちゃうからね」
「ありがとうございます。えっと、後少しで、妹が来ます」
「そうなんだ。じゃあ、出発は12時になるかな。妹さんに、お昼ご飯くらい奢らなきゃだね」
保は、そう言って笑った。瞳も、その雰囲気に何と無く安心していた。今日は、楽しい日になるのだろうと思う。
「あの・・・」
ピンポーン。
瞳が何かを言いかけた時に、ドアチャイムの音が響いた。瞳の妹が、到着したようである。
「ちょっと、出てきますね。保さんは、大丈夫ですか?」
「僕は、大丈夫だよ。いつでも出かけられる」
「そうですか。じゃあ、連れてきますね」
そう言うと、瞳は着替えを二人用のテーブルに置いて、玄関へ向かった。玄関の扉を開けると、ショートカットの女の子が立っている。
「来たよ」
「えっ、髪切ったの?」
「そう。これから、夏だからねぇ。じゃあ、失礼して」
アパートの中へ入りながら、瞳の妹は、一瞬だけ、保の靴を見た。
「こら。靴、確認しないの」
瞳が、玄関の扉を開けたまま言う。瞳の妹は、軽く返事をしながら、スニーカーを脱いでいる。瞳の予想通り、瞳の妹は、ショートパンツを穿いていた。そこは良かったと、瞳は思ったのだが、まさか叔母さんの言う通りに、保の靴を確認するとは思わなかった。
瞳の叔母は、事ある毎に『男は足元から』と言っている。顔が良くても男は足元から、足元良くても男は喋りから、喋り良くても男は行動から、行動良くても男は心意気から也と、瞳は小学生の時から聞かされていた。瞳の叔母流の女帝学である。
久しぶりに思い出すと、瞳はクスリと笑いながら、玄関の扉を閉めた。少し急いで、リビングの扉の前で待っていた自分の妹の所まで行くと、先に、保の居るリビングへと入った。保は、座卓で、煙草を吸っている。
「あの、保さん」
ドアの音で気づいた後、瞳の掛け声に反応して、保は、短くなった煙草を消す。急いで、二人の方を向き直した。ショートカットで、瞳と同じ目をした女の子が、一緒に立っている。
「その子が、瞳ちゃんの妹さん?」
掛けられた声に返しながら、保も、サッと立ち上がった。瞳の妹の目は、保を、品定めするような目でみていく。独特な子なのかなと、保は思った。
「ええ、妹ですよ。自己紹介して欲しいんだけど」
会話の後半部分で、瞳は、妹の方を見た。それに反応して、瞳の妹は話し始める。
「はいはい。どうも、初めまして。赤石真名子です。よろしくお願いします、お兄ちゃん。これで良い?」
「いや、一言余計」
今までとは違う瞳の反応に、保は、なんだか笑ってしまった。人間の身内に対する反応は、誰であろうと面白い。
真名子は、その保の反応を見て、今までの固さが必要の無い人だと分かった。取り敢えず、大丈夫な人間だと、真名子は思ったのである。顔の固さが消え、少し顔を緩めた。暫くの間、話し相手になるのは大丈夫そうだと、更に、真名子は思っている。
笑いが終わると、保の自己紹介の番であった。
「えっと、僕は遠藤保です。好きな下着は紐系です。瞳ちゃん、これで良い?」
「いや、一言余計って。もう、ツッコませないでくださいよ。二人して」
そんな瞳を見ながら、真名子が笑っている。ノリが良い子と聞いていた保は、取り敢えずノリを作ってみたのだが、真名子の反応で、明るい子だというのが分かった。もっと話してみれば、いろいろと分かるだろうと、保は考える。多分、真名子は壁を作らないタイプだろうと、推測もした。
「じゃあ、シャワー行ってくるので、二人とも少し待ってて下さいね。あっ、真名子。500ミリリットルのペットボトルが、冷蔵庫にあるから、それ出して二人で飲んでね」
瞳が、真名子に言う。失礼なことは言うな、という注意であるようだった。
「分かったから、早く入ってきなよ」
そう言うと、真名子は冷蔵庫を開けて、二本500ミリリットルのペットボトルを取り出した。二人用のテーブルに座り、瞳に、早く行って来いと、ジェスチャーをする。
「じゃあ、すみません。苛ついたら、怒って良いので」
こそっと、保に、瞳が言いに来る。保は、大丈夫だよ、と言いながら笑顔を作った。瞳は、それを見て安心すると、二人用のテーブルに置いた着替えを持ち、真名子に何かを言ってから脱衣所へと向かった。何か釘を刺されたのだろう、真名子は溜め息が出ていた。保は、そんな姉妹のやり取りを見ながら、座る場所を二人用のテーブルへと変える。
「どっち飲みます?お茶か、こっちの微炭酸のヤツ」
保が椅子に座ると、真名子が聞いてきた。真名子は、話し掛ける事に躊躇いが無い。保は、予想より楽だと思った。
「じゃあ、お茶で」
「うん、よろしい」
何かを採点しているような口調の真名子。変わった子だなと、保は、感情のおかわりみたいに思ったが、なんだか、それが新鮮で面白く感じていた。
二人で、ペットボトルを開けて、一口、二口飲むと、真名子が、瞳の話をし始めた。いつも自分が相手の時は、時間にルーズになるとか、料理は美味いけど面白味に欠けるとか、愚痴の数々を、保は聞かされている。保は、頷きながら、たまに瞳側に立った意見を言って、喋りの火に油を注いだ。
20分ほど経っただろうか。真名子は、そろそろ良いだろうという感じで、真剣な顔で保を見た。雰囲気が変わった真名子に、保は、なんだろう、変な事したかな、と思った。
キッチンで、蛇口から水滴が落ちると、真剣な静けさが部屋に出来上がる。
真名子が口を開いた。
「あの、お姉ちゃんのアレを、見ましたか?」
真名子の言葉に、保は、直ぐに声を出す事が出来なかった。




