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寒(1)

 目の前の出来事が嘘であって欲しい。そんな事は、人生の中に数回はある。

 二人が眠りに就いて二時間。瞳が、もぞもぞと機械的に動き始める。保は、最初、トイレかなと思った。横目でチラッと、デジタル時計を見る。午前6時半。まだ、少ししか眠っていない。保は、確認が済むと寝直そうとする。

 次の瞬間。

 瞳の顔が保の顔へ迫ってきた。素早い動きに保は何も出来ない。唇と唇が、()れ重なる。そして、二時間以上前の行為を、寸分違(すんぶんたが)わず行おうとする。


 おかしい、おかしい、おかしい。

 保は、瞳の顔を見た。

 向日葵、紫陽花を飛び越えて黒百合。


 遮光カーテン(ゆえ)の常夜灯に照らされ、橙色の空間に浮かんで、強固に存在している。明らかに、数時間前の瞳では無い。

 そうは言っても、身体は正直だった。物理的な接触に、無反応で居られる訳がない。

 保は、背筋が無くなるような感覚に、徐々に流される。脂汗が、じんわりと額を流れ、顳顬(こめかみ)を伝って、首へと移動していく。

 男性一人では抗えない程の力を、時々、瞳は織り交ぜてくる。逃げられないのでは無い、逃げた後の方が怖いのだ。

 保は、ゆっくりと息を吐く。ゆっくりと、頭の中を動かす。起きてからの事を一つ一つを確認する。そして、冷静になる。上で、酔い痴れて乗っている瞳を観察した。

 保が、やらされている行為に近い動きをすると目の前の瞳は喜んだ。逃げようとすると、先程の力を使ってくる。数回繰り返して分かった結果である。つまり、それ以上の事はしてこない。

 保は考える。目の前のそれは、明らかに瞳では無い。身体は瞳の形をしている。笑ってもいる。声も聞こえてくる。

 もう一人、居るのかもしれない。

 何と無くだが、保は、そんな考えが浮かんだ。状況を的確に説明するには、それ以外無い。でも、確かめようが無いのだ。ひたすら、行為だけが続けられていく。

 保にも、するように(うなが)してきた。してあげると、耳を塞ぎたくなる笑い声の後、声を出して喜ぶ。土留(どどめ)色の声が、部屋を支配していた。


 時間だけが過ぎた、午前7時半。一通りの行為が終わると、瞳は電池が切れたように、前のめりに倒れてきた。保は受け止める。小さな体は、特に変わりは無い。ゆっくり、寝息を立てている。

 瞳を仰向けで寝かせると、保はベッドに座った。本来なら、ここで逃げ出すべきだ。関わってはいけない人間が、世の中には確実に存在する。

 保は、深く深く考えた後、ベッドで横になった。最初は怖いだけだったが、逃げ出さなかった理由を集めた結果である。

 保が救われた事は、紛れも無い事実だったから、そこから逃げる事は出来なかった。そういう事にしたのだ、納得する為に。

 真面目に生きている人間が、貧乏くじを引く理由かもしれないが、その優しさが外側を覆っているから、世界平和なんて言葉が出来たのかもしれない。あれは多分、何かを封印する言葉だ。


 保は(しばら)く寝就けなかったが、昨日の疲れと先ほどの疲れから、うとうとし始めると、もう一度眠りに就く事が出来た。後、一時間半は眠れるだろうか。ベッドの二人は、静かに眠っている。常夜灯に照らされながら。


 瞳の枕の下で振動。瞳が、昨日の夜の内にセットしていた目覚ましだ。

 時間は午前9時。瞳は、仰向けで目を開ける。目覚ましを止め、横を見ると保の顔。その顔が可愛くて暫く見ていた瞳だが、昨日を振り返ると、愛しくなりそうだったから、ほおに口を付けてベッドから起き上がった。


 朝食を作って、10時に保を起こす。朝食を取って、シャワーを浴びる。瞳が、シャワーを浴び終わった頃には、時間を過ぎてしまうが、妹に待って貰えば良い。

 そんな風に考えながら、瞳は、パジャマワンピースを着た。下着は下だけにする。フェイスタオルと洗濯したい物を持って、静かに空気を動かしながら、寝室を出て行った。

 脱衣所へと向かうと、瞳は、洗面台で顔を洗う。タオルで顔を拭いている時に、不意に鏡を見た。久しぶりの感覚が、心臓を上から下へ流れる。眠る前までの事を思い出すと、少し顔が柔らかくなってしまうのが鏡に映り、何だか心地良い恥ずかしさを感じて、どうしようもなく、顔が柔らかくなってしまった。


 瞳は、高校三年生の時まで彼氏が居たが、卒業する半年前に別れていた。大学へ行く人と高卒で働く人の違いが理由だったが、変な別れ方はしなかった。

 仕事に就いてからは、殆んど出会いが無い。仕事場である工場へ、取引先の人が来る事はあるので、誘われたりもするのだが、瞳はやんわり断っていた。大抵、現場に来る人は、一癖か二癖あるからだった。面倒な人は誰でも嫌である。


 持って来た洗濯物を手早く分けると、瞳は、昨日干した洗濯物を確認した。タオルと下着は乾いていた。バスタオルは湿っぽい。タオルと下着だけ畳むと、Tシャツを確認してみる。やっぱり、まだ湿っぽい。瞳は、スタンド式物干しを片付ける事を諦め、畳んだタオルと下着を持って、脱衣所を後にする。寝室へ行く前に、保のスポーツタオルを、ボストンバックの近くへ座椅子を動かしてから、その上に置いた。その後、ゆっくり扉を開けて寝室に入り、タオルと下着を収納すると、キッチンへと静かに向かった。

 冷蔵庫の前でエプロンをつけると、瞳は、たらこスパゲッティと、ハムエッグ、サラダの準備を始める。冷蔵庫から、レタスとトマト、アボカドを取り出すとお尻で閉めた。

 作業台まで持って来ると、昨日の分の食器を洗っていない事に気づいた。


「あっ、そうだった」


 瞳の独り言。一人暮らしが長いと、たまに、出てしまう行為である。瞳は、サラダ用のピンクの硝子の器を取り出すと、先にサラダを作ってしまう事にした。

 野菜用のまな板の上で、野菜用の包丁を使い、トマト一個を六等分にする。アボカドの半分に切れ込みを入れ、くいっと回すと種を取った。熟れていたので力はいらない。皮を剥くと、一口サイズに切っていく。

 それが終わると、瞳はレタスを一枚一枚剥いで、軽く洗って水を切る。八枚くらいレタスが準備出来ると、手でちぎって、直接、器へ盛っていく。一つの器に四枚分のレタス。そこへ、アボカドを半分づつ乗せる。一つの器にアボカド半分。多いかなと瞳は思ったが、時間が経つと変色するから、そのまま進む。そして、トマトを半分。レタスが可哀想な状態になったが、仕方ない。瞳はラップをしてから、冷蔵庫へサラダとレタスをなおした。


「よし」


 瞳は掛け声を掛けると、作業台のワインの瓶を綺麗に(すす)ぎ、キッチンのゴミ箱の近くへ、拭いてから置いた。空き缶もついでに捨てると、作業台のグラスから洗っていく。グラス三つ、アイスペールにトング。

 先にそれらを濯いで、食器用水切りスタンドに、逆さにして置いていた。溜まった水が、ノズルを伝って、流し台へ流れるタイプのスタンドだ。結構、使い易いと思っている。

 瞳は作業台の物が無くなると、食器用洗剤をスポンジにプラスして、皿や箸、箸置きを洗った。先ほど使った、包丁とまな板も忘れない。カチャカチャと音がするけれど、いつもよりリズムが良かった。瞳の気持ちを表してるみたいである。

 食器用洗剤を洗い流しながら、瞳は時計を見た。午前9時15分過ぎ。少しピッチを上げながら、食器類をスタンドへ。洗い桶を逆さにすると、今度は鍋用のスポンジでフライパンを洗った。


 料理がきちんと出来ているなら、洗い物も楽になるのだと、瞳は、いつも思っている。無駄な焦げ付きも無いし、変に汚してしまう事も無いのだ。だから、力なんていらないし、メンテナンスに時間を掛けられる。すると、その次がちゃんと楽になるのだ。手を抜くとは、手を抜けるだけの貯金を、持っている人だけに許されている事なのである。

 フライパンの泡を良く洗い流して、キッチンペーパーで軽く拭くと、瞳はコンロで乾かした。鍋敷きを作業台の上に出して、その上に置いておく。


 カン、カン。


 底の深いフライパンを取り出すと、左のコンロに乗せて計量カップで水を入れた。一リットルの計量カップで二杯。火に掛けて、湯が沸くのを待つ。フライパンで湯を沸かし、スパゲッティを茹でると噴きこぼれ難い。

 瞳はその工程が終わると、スパゲッティを作業台の上へ置いた。100円均一のショップで買った、一人分が出てくるプラスティックの入れ物の中に、スパゲッティが入っている。スパゲッティは三人分茹でて、一人分半にするのが瞳流だった。これを使えば分かり易い。

 水が沸騰するまでの間、昨日の余り物の煮物を器に移し、ラップをして冷蔵庫に入れる。煮汁を少し入れて置けば、電子レンジで温めて食べ易い。

 鍋を流し台で洗うと、フライパンと同じように、空いた右のコンロで乾かしてから、フライパンと入れ替えた。蓋は布巾で拭くと、鍋の上へ。ついでに、食器類も拭き始める。キッチンが渋滞すると、瞳が思ったからだった。その様な状態を目の前で見れば、心が噴火する人の方が多いだろうか。瞳は、次々と食器棚へと食器を拭いて収納していく。布巾を三枚使ったが、瞳は、満足気に食器棚の扉を閉めた。


 そのままの勢いで、瞳はリビングのカーテンを開けた。良く晴れた青空は、太陽を泳がせて、気温が高い事を教えている。益々、瞳は気分が良くなり、窓を開けて網戸にした。風が吹いて、瞳の髪が揺れる。昨日の湿気が少しあるが、部屋の中が湿る程では無い。

 瞳は、一回キッチンに戻ると、座卓と二人用のテーブルを拭いた。そして、二人用のテーブルにテーブルセッティングをしていく。

 昨日とは違う色のランチョマットと綿のコースター。細長い小さな籠には、フォークを二つ、箸を二膳。背丈の低いグラスを逆さに置くと、テーブルの上は整った。


 朝からこれだけ瞳が動くのは、ただ単純に料理が好きだからではない。妹との約束があるからでもなかった。今日の瞳は、そんな気分になった日だった。形になるか、ならないかは別にして、ただ、大切にしたかったからだった。

 瞳は、キッチンに戻ると、底の深いフライパンを確認した。もう少しかなと、瞳は思う。先に、ハムエッグを作る事にした。

 洗ったフライパンへ、サラダ油を入れると火に掛ける。冷蔵庫から、昨日の余りのハム四枚と、卵を二つ取り出すと、冷蔵庫をお尻で閉めた。それらを作業台に乗せると、サラダ油を、フライパンの中で一周させた。

 ハムを四枚並べ入れる。薄く色が付くと、ひっくり返して卵を二つ割り入れた。1分程経って、白身の色が変わると、水を60ミリリットル入れて蓋をする。これで、焦げ付き難い。

 水を入れて、1分経って蓋を開けると、黄身の部分も色が少し変わる。余分な水を、流し台に捨てると、キッチンペーパーでフライパンの横を拭いて、再び火に掛けて残りの水分を飛ばした。

 火を消して、皿を四枚取り出し、平べったい皿二枚に、ハムエッグを盛り付ける。黄身が固まらず、プルプルと動いていた。盛り付けが終わると、二人用のテーブルへと持って行く。


 キッチンへ戻ると、底の深いフライパンは気泡が無数に出ていた。そろそろ良いかなと瞳は思い、そこへ、塩を大さじ一杯から少し零して入れる。大さじ一杯は18グラム。それでは、少し塩が多い。三人分だから、15グラムくらいか。フライパンだから、そこは、瞳の目分量である。

 水が沸騰してから塩を入れるのは、沸点が変わる為だ。瞳もそこを考えて、いつもと手順を変えている。今日は時間が無い。時間があり、何かを他にしながらならば、先に入れておいた方が楽だ。手順が詰まってこない。このような点で、理数系の女性の方が、料理が得意だと言っても過言では無い。料理は、科学でもある。

 塩を溶かしきった後、瞳は三人分のスパゲッティを入れて、ストップウォッチを作動させた。茹で時間は8分。瞳は、同時に時計も確認する。午前9時25分。順調だった。

 さっき取り出した底の深い皿が、作業台の上に二枚あるので、邪魔にならない所へずらして置くと、大き目のざるとボウルを作業台へ乗せる。ハムエッグに使ったフライパンを洗うと、食器用水切りスタンドにひっくり返して置いた。ざるを流し台に置くと、スパゲッティの行き先を作る。

 瞳は、冷蔵庫から昨日買った明太子を取り出した。五腹入っているタイプである。三腹、ボウルの中へ、中身を取り出し入れた。二腹は、小皿の上へ取り出しておく。パックは、洗う為に流し台の隅へ。厳密に言えば、熱湯のかからない所へである。ラップとドリップ吸収シートは燃えないゴミへ。バターとオリーブオイルを、冷蔵庫から取り出して作業台の上に置くと、スパゲッティの煮汁を、お椀に御玉で一杯分入れる。

 タイマーが、丁度鳴った。瞳は、タイマーの音を消すと、コンロの火を消す。スパゲッティを一本、試しに食べた。柔らかさとしては、少々固めだが、後は、余熱で丁度良くなるだろう。

 両手でフライパンを持って流し台へ。瞳の手が少し震えていた。女性には重たいのである。ざるの上で、なんとか綺麗にひっくり返すと、キッチンペーパーでフライパンを拭いて、元のコンロへフライパンを置いた。すぐに、トングを使いながら、スパゲッティにオリーブオイルを掛ける。オリーブオイルの量は、多目にするのが良い。


 瞳は、茹でるのに使ったフライパンを流し台へ持ってくると、トングで半分スパゲッティを入れた。バターを少しだけ加えて、コンロにおくと火を付けた。オリーブオイルも追加で回し入れて、小皿の明太子を入れる。スパゲッティの茹で汁を入れて、明太子が絡み易いようにする。

 徐々に、明太子の色が変わると、醤油を加えて香りを立たせた。味を見ると、ちょっとだけ白だしを加えて、もう一度味を見た。瞳は、出して大丈夫だなと、思えたので火を消した。

 残りのスパゲッティは、粗熱がとれている。ボウルへと移すと、明太子と絡めていった。こちらは、なるべく、明太子に熱を通したくなかったのだ。茹で汁と塩だけで軽く味をつけると、山葵ふりかけを掛けた。味を見ると、予想通りになったと思い、瞳は笑顔になる。

 作業台の皿を盛り付け易い位置に持ってくると、一皿に半分半分盛り付けていった。刻み海苔を上に盛ると、たらこスパゲッティが完成する。

 瞳は、二人用のテーブルへと、たらこスパゲッティを運んだ。サラダも、冷蔵庫から取り出すと、ラップを外してから二人用のテーブルへ運ぶ。

 ドレッシング、醤油、マヨネーズも二人用のテーブルへ。後は、昨日買ったアップルジュースを置いた。コーヒーメーカーにカップをセットして、スイッチを押すと、瞳は保を起こしに、寝室へと向かった。


 コーヒーメーカーの音を背にしながら、寝室のドアを開けると、瞳は遮光カーテンを開けて、保に声を掛ける。


「保さん。朝ご飯出来ましたよ。起きてください」


 保は、うんうん言いながら、横向きから仰向けになった。瞳には、その状態が可愛く見えて、少し楽しくなった。瞳は、保側のベッドの端に座ると、更に保に声を掛ける。


「保さん。起きて下さい」


 保は漸く、ゆっくり目を開ける。そして、眩しさを抑える為に、右手を額の辺りに移動させた。


「おはよう」


 保は、ゆっくりと瞳に言った。


「はい、おはようございます」


 瞳は微笑んで答える。保は、頭がゆっくり動き出すと、瞳の顔を見た。昨日の瞳、向日葵の瞳である。悪い夢だったのかもしれない。保はそう思ったが、身体を動かしてみると、強く押さえられた所が痛む。悪い夢では無かった。少しだけ、保は落ち込んだ。

 その様子が分かったのか、分かっていないのか、ベッドに座った瞳が、保の顔を覗き込んでくる。

 保は反射的に、瞳の胸に左手が出てしまった。あるべき物が無い事に、保は、直ぐに気がつくと、瞳の顔を見た。それが、ばれてしまった瞳は、目が少し泳ぐと、顔が赤くなる。


「もう。私よりも、朝ご飯を食べますよ」


 こんぺいとうみたいな声で、瞳は言うと、軽く保の頰に口を付けて立ち上がると、先に寝室を出た。

 保は、その行動を目で追いながら、元に戻っている瞳に対して、どうするべきか、悩み始めてしまっていた。瞳の胸の柔らかさが、保の左手に残っていたが、縋るようにゆっくり消えて、叫び声みたいだった。










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