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エキの最期

使徒の気配が、こちらへ触れる。


それは殺意ではなかった。敵意ですらない。ただ、そこに在るものが、次の瞬間にはもう在らぬものになる。その確定だけが、冷たく降りてきた。


エキは勇者の前へ出た。自分でも理由は分からなかった。国家のためではない。任務のためでもない。勇者を救世主だと信じていたわけでもない。

ただ、ここでこの男を壊してはならないと、そう思った。


使徒の翼がわずかに動く。

その瞬間、エキは反射で身を捻った。視認してからではない。考えてからでもない。死地へ入る者の身体だけが知っている、意味のないはずの最小の回避だった。


遅い。

分かっていた。だが、それでもほんのわずかに軌道がずれた。

エキの左肩口から胸にかけて、斜めに熱が走る。次の瞬間には、それが熱ではなく、自分という形が裂ける感覚だと知った。

「っ――」


声にはならなかった。

膝が折れかける。それでもエキは倒れない。背後に勇者がいる。それだけで、身体の残骸みたいな均衡がまだ立っていた。

血が噴いた。温かい。ああ、届く死だ。そう思った。


使徒の前では何もかもが遠すぎた。だが、この傷だけは近い。ようやく、自分の知っている死が来た。そのことに、奇妙な安堵すらあった。


勇者が何か叫んでいる。聞こえない。あるいは聞こえているが、もう意味として脳に届かない。

エキの視界が、そこで揺れた。

暗転ではない。落下でもない。ただ、現在という薄い膜がひとつ剥がれ、その向こうから昔の光景が滲み出してきた。



血の匂い。濡れた石畳。夜の屋根の上。火のついていない煙草を咥えた教官の横顔。

『殺すな、とは言わん』

若い頃のエキは、まだ今より少しだけ痩せていた。頬骨が尖り、目だけが無駄に冷えていた。訓練場ではなく、もう実地に近い場所だった。諜報員候補生たちが十数名。帰ってきたのは半分だった。

『だが、壊しすぎるな』

教官はそう言って、ダガーを投げてよこした。刃は短い。銃より近い。毒より遅い。それでも一番、相手の息づかいのそばで仕事ができる武器だった。


『死体は黙る。壊れた口は嘘を吐く。一番使えるのは、まだ生きている人間だ』


その言葉を、エキはずっと覚えていた。



場面が変わる。

雨の夜。潜入先の裏路地。喉を裂いた男の血が、排水溝へ流れていく。その足元で、まだ若かったエキは吐いていた。

『向いていないか』

そう問うた先輩の顔は、もう思い出せない。ただ、その声だけが残っている。

『いいや』

若いエキは答えた。吐いたあと、口元を拭って、すぐに立ち上がった。

『向いているかどうかはどうでもいい。必要ならやる』



また場面が変わる。

尋問室。泣き叫ぶ女。沈黙を守る男。自白剤。壊れた証言。切り捨てられる協力者。名も残らない死。

エキは何人もの人間を壊してきた。泣かせて、折って、喋らせて、切って。必要だからと自分に言い聞かせながら、その必要の形だけを磨いてきた。

そのたびに、ダガーの手入れだけは欠かさなかった。


祈りの言葉は覚えなかった。神を信じたこともない。救済など、諜報の現場では最初から死語だった。

だが刃だけは磨いた。油を引き、布で拭き、曇りを残さないように整えた。理由は分からない。ただそれだけが、自分の手を震わせずに済む儀式だった。



場面がまた変わる。

帝都の高官の喉を裂いた夜。「安心しろ」と最後に告げたあの声。帝国は救われない。だが今夜は崩れない。それで十分だった。

そうやって、ずっと“遅らせる側”にいた。

破滅を止めるのではなく、遅らせる。死をなくすのではなく、順番を変える。切るべきものを切り、残すべきものを残す。


それがエキという男だった。

そして今――



勇者を壊すには、まだ早い。

その思いだけが、走馬灯の底でひどく鮮明だった。

現在が戻ってくる。

痛み。血。呼吸の引っかかり。膝の震え。

使徒はなお目の前にいる。勇者は背後にいる。そしてエキは、まだ倒れていなかった。

「……落ちるな」

血を吐きながら、エキはもう一度言った。


それが勇者に向けた言葉なのか、昔の自分に向けた言葉なのか、もう分からなかった。

ただ、せめてこの一瞬だけは。この男を、あちら側へ落としたくなかった。

エキはダガーを握る。刃はまだ手の中にある。今日もよく研がれていた。

その時、使徒の視線が、ほんのわずかにエキへ落ちた。


それだけで十分だった。

「祈りは届かない…か」


次の瞬間、エキの身体は静かに崩れた。

千切られた薔薇のように、などと、その時は誰も思わなかった。ただ、よく保っていたものが、ようやく限界を思い出しただけのように見えた。

それでも倒れる直前まで、彼は勇者の前に立っていた。



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