覚悟
使徒はなお歩いていた。歩くだけで人が死ぬ。その理不尽さにも、もう驚きは追いつかなかった。驚くより先に、世界の方が置き換わってしまっていた。
勇者は膝をついたまま、動かなかった。いや、動けなかった。サラが二つにずれ、ノウイーとアレックスの形が消え、それでもなお自分だけが残されている。その事実が、彼の骨の芯へ静かに食い込んでいた。
エキはその横顔を見た。
恐怖ではない。絶望でもない。もっと始末の悪い何かだった。
壊れる人間を、エキは嫌というほど見てきた。泣き叫ぶ者。怒鳴る者。意味のない祈りに縋る者。自分だけは助かると信じ込もうとする者。そうした壊れ方なら、まだ分かる。
だが今、勇者の中で起きているのはそれではなかった。
沈んでいる。静かに。抗うでもなく、拒むでもなく。ただ、自分よりはるかに大きなものへ向かって、心の方から落ちていっている。
エキは知っていた。こういう壊れ方をする者は危うい。悲鳴を上げる者より、ずっと深くまで壊れる。そして一度その底へ触れれば、もう二度と人の側へ戻ってこない。
使徒がまたひとり、兵士を裂いた。血が霧になる。それでも勇者はそちらを見ていなかった。見ているのは、ただ使徒だけだった。
「……おい」
エキが呼んでも、勇者は反応しない。
「勇者」
今度は少し強く呼ぶ。それでも目だけが、ゆっくりと動いた。
その目を見た瞬間、エキは確信した。
ああ、もう始まっている。
勇者は死を恐れていない。それどころか今この瞬間、殺されなかったことに傷ついている。選ばれなかったことでも、助かったことでもない。終われなかったことそのものが、彼を壊し始めている。
エキはダガーの柄を握り直した。
守る。その発想は、彼の人生には本来なかった。切るか、切られるか。遅らせるか、見捨てるか。それが彼の世界だった。
だが今ここで勇者を放置すれば、使徒に殺される前に、別の意味で終わる。人として。勇者として。あの男は、ここで壊れる。
それは、まだ早い。少なくともエキには、そう思えた。
理由は分からなかった。勇者に国家を託したいわけではない。救世主だと信じているわけでもない。ただ、あれを今ここで失えば、何かもっと大きな綻びが生じる。そういう直感だけがあった。
使徒がまた視線を巡らせる。次にどこが消えるか、もはや誰にも分からない。
エキはひとつ、短く息を吐いた。
死地は知っている。届かぬ死も、分からぬ。だが、だからといって何もしない理由にはならない。
「……まだだ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
勇者の腕を掴む。強く。現実へ引き戻すように。
「見るなとは言わん」
エキは低く言った。
「だが、落ちるな」
勇者の目が、初めてわずかに揺れた。
その瞬間。使徒の翼が、かすかに震えた。
エキは反射で勇者の前へ出た。考えたのではない。それより先に、体が動いていた。
自分でも理解できなかった。なぜ庇ったのか。なぜ刃を構えたのか。なぜ届かぬものへ、それでも身を差し出したのか。
だが理由はあとでいい。死地とはいつだって、理解してから入る場所ではない。
使徒の気配が、こちらへ触れる。
エキはその瞬間、自分が久しく忘れていた感覚を思い出した。若い頃、まだ人を壊す技術より先に、自分の死だけを握って走っていた頃の感覚。祈りも救いもなく、ただ一歩を前へ置くしかなかった頃の感覚。
ダガーがわずかに鳴る。
エキは、初めて使徒を正面から見た。
届かない。そんなことは最初から分かっていた。それでもなお、勇者を背に置いたまま立つ。それだけで十分だった。
その一瞬だけは、勇者を人の側へ繋ぎ止められる気がした。




