使徒
最強異形が崩れた、その直後だった。
誰も動けなかった。動けば死ぬ、という理解すら遅れていた。死ぬより前に、何かもっと大きなものへ触れてしまったような感覚だけが、戦場に立つ全員の背骨を凍らせていた。
使徒は、そのまま歩いた。
急ぎもせず、威圧もせず、誇示もせず。ただ一歩ずつ、当然のように。
その歩みの前で、人は意味を失った。近くにいた兵士の胴が、何の前触れもなく左右にずれた。別の場所では、逃げようと振り返った者の首が遅れて落ちた。誰も、何が起きたのかを見切れない。見切れないまま、死だけが成立していく。
悲鳴が上がる。だがその悲鳴も、すぐに別の切断で途切れた。
逃げる者。
伏せる者。
撃つ者。
祈る者。
そのどれもが等しく無意味だった。
使徒は、人を殺しているようには見えなかった。少なくとも勇者にはそう見えた。ただ前へ進み、その進路の中にあったものが、あとから壊れていく。それだけだった。
エキはダガーへ手をかけた。かけたまま、抜けなかった。
抜けば届くか、ではない。抜いたところで何にもならないと、手の方が先に知っていた。
自分が知る死地は、もっと狭く、もっと具体的で、もっと人間の尺度の内側にあった。銃弾。刃。毒。爆発。それらはどれも、“届く”死だった。
だが目の前にいるそれは違う。届く以前に、こちらの意味を剥がしていく。切る、殺す、壊す、守る。そのどれもが、あまりに遅く、あまりに小さい。
D-1344はなお演算を続けていた。
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対象個体、不明。
挙動解析――不能。
空間干渉可能性――演算不能。
異物個体群、消失継続。
損耗率、上昇。
当機判断――停止。
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それはD-1344にとって、初めてに近い躓きだった。答えが出ないのではない。答えという形式そのものが、そこでは意味を成さなかった。
勇者は、立ち尽くしていた。
動かなかったのではない。本当に、動けなかった。
あの存在の前では、自分が信じてきた全てが急に幼く見えた。活路。希望。守ること。戦うこと。どれも間違いではなかったはずなのに、今この瞬間だけは、それらがあまりにも小さく、人間の都合で磨かれた言葉にすぎないように思えた。
それでも、目だけは逸らせなかった。
使徒は歩く。人が死ぬ。歩く。また死ぬ。その繰り返しの中に、怒りはなかった。殺意すら、感じられなかった。ただ、そうなるからそうなっているだけのようだった。
やがて使徒の視線が、勇者へ向いた。
その瞬間、勇者の心臓が止まったように感じられた。
来る。
そう思った。いや、そう願ったのかもしれない。
恐怖ではなかった。少なくとも、勇者自身にはそう思えなかった。圧倒的なものを前にした時、人は恐れるより先に、自分の小ささを知る。その小ささを知った先で、なお目を離せないなら、それはもう別の何かだった。
使徒は勇者を見た。
長くもなく、短くもない、ただ完全な一瞥だった。
その眼差しの中に意味があったのか、勇者には分からなかった。選別だったのか。確認だったのか。それとも本当に、何の意味もなかったのか。
少なくとも勇者には、その時、使徒が微笑んだように見えた。
そして――何もせず、視線を外した。
勇者のすぐ横で、後方にいた兵士の上半身が音もなく消えた。血がかかる。肉片が頬を打つ。それでも勇者は、自分がまだ生きていることをすぐには理解できなかった。
「……なぜだ」
声にならない声だった。
なぜ殺されなかったのか。見逃されたのか。選ばれたのか。それとも、殺す価値すらなかったのか。
そのどれもが、勇者の中で一度に膨らんだ。
使徒はすでに別の方向へ歩いていた。翼だけが、現実離れした静けさで揺れていた。
その先にはサラがいた。
彼女もまた、呆然と立ち尽くしていた。次の瞬間、その身体が音もなく二つにずれた。
「サラ……」
勇者はその場に膝をついた。
助かったはずだった。だが、それは生き延びたという感覚ではなかった。サラを助けに行くことすらできなかった。それどころか勇者は、一瞬だけ彼女を羨ましいと思ってしまった。
自分はまだ見られている。まだ置かれている。まだ終われていない。
その事実が、何か決定的なものを自分だけ置き去りにされたように感じさせた。
周囲ではまだ人が死んでいる。エキは視線を切らない。D-1344は停止と演算不能の狭間でなお観測を続けている。戦場はまだ終わっていない。
ノウイーも、アレックスも、すでに瞬断されていた。ついさっきまで別々の戦場で異物を崩していた者たちが、今はもう形を失っている。
エキはその時初めて、勇者の中で何かが壊れ始めているのを見た。
それでも勇者の中では、何かがなお深く沈み続けていた。
殺されなかった。
その事実が、どんな傷よりも深く、彼の中心へ刺さっていた。
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対象個体:勇者。
不明個体による排除、未実行。
理由――不明。
選別基準――不明。
価値判断――不明。
当機、混乱を確認。
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D-1344は初めて、自らの混乱と勇者の沈黙が同じ一点から生じていることを観測した。
理解不能。それだけが、今や両者に共通していた。




