トモア4
画家家として求められるもの。
普遍的に要求されるものの一つに “表現力”があるだろう。
ただ精緻に描くだけではしかたがないのだ。要するに足すところを足し、引くべきところを引く。対象にまつわる膨大な情報からエッセンスを抽出し、整理されたモデルとして顕然させしめる。それが表現である。
「あなたの絵からは“ジョジョウ”が感じられない」
と、言われても仕方ないではない。自分にはその才能がないのだから。
弱点を補うべくマールが磨いた技術は徹底的な空間把握である。逆に、足さない、引かない。身も蓋もないほど、そのままを描く。いや、マールだって知っている。“そのまま”は言葉ほどその実態を表していないことを。それでも、そうする他ない。
芸術としては二流、あるいは三流以下。また市場に流通する「商品」として見ても、マールの絵はそれほど価値を持たなかった。マールの制作過程はあまりに多過ぎる時間を要求した。また、空間を丸ごと呑みこむ必要があるから、必然的に硬直的な静物画しか描けなくなってくる。それは、一瞬一瞬の感情や躍動を絵に閉じ込めたいという、人々の需要に応えるものではなかったのである。
◇◆◇
競りが行われるすり鉢状の建物の中央は一段高くなっている。フリクエント族の奴隷たちは五人一組でそこに上げられ、たっぷりと入札者たちに吟味された。次の組に入れ替わるまで約二三十分時間があった。遅筆のマールにとってはあってないような時間だが、賃金労働者として雇用され、他に食うすべを持たない以上、文句を言っている暇はない。
それでも、フリクエント族を描くことは比較的簡単だった、と言っていい。一方のヘイズ族はそういかなかった。
「ああもう、暑いっ! 暑いっ!!」
マールは汗を拭きながら歩き回る。
敗北し征服された者たち、---だからなのだろう。ヘイズ族はフリクエント族とは異なり、屋外の檻で「男女に分けられ放し飼い」になっていた。羞恥か、あるいは屈辱か。マールが筆でとらえようとすると、ヘイズ族の人々は背を向けた。冬前の最後の陽気。夏のように照る陽の下で、檻の周りをぐるぐる回って対象を追い続けるうち、マールの方が消耗してくる。頭が溶けそうだ。首にから下げたデッサン版の紐がうなじに食い込んでくる。
だめだこりゃあ。
檻から檻へ。思い通りにならないヘイズ族に苛立ちつつ、マールは描くべき人物を探して歩く。だらだらこぼれる汗が帽子にまで染み上がり、いよいよ正午にさしかろうとしていたとき、とある小さな檻の中に、マールは一人の少女を見つけた。
その少女に目が留まったのは、マールがほんの少しだけ持つ、絵描きとしての職業的直観だった。すし詰めの檻中、その少女の周囲にだけ、ほんの少し隙間ができていた。そしてその鋭い眼差しも相まって、一人だけ輪郭が浮き上がり、他の女たちを完全なカキワリとさせしめていたのだ。
この子だ。
マールはその場に座りこみ、猛然と鉛筆を走らせる。少女は背を向けようとしない。むしろ、毅然とこちらをにらみ返した。動かないことは、こちらを見続けてくれることは、マールにとって都合が良い。
マールの手はするすると進む。良い対象には絵描きの手を動かす力が宿る。自分では気付いていなかったが、マールは“描かせられていた”のだ。
……
……
「ここで、何をしている」
はっとして顔を上げると、ガウシアが目の前に立っていた。集中し過ぎて足音に気が付かなかった。
「あら、マルチコ君じゃないか」
ガウシアの高い背の後ろから、先生がひょっこりと顔を出す。
「先生、ガウシアさん」
「ああ、お願いしていたやつだよ。私たちはやるべきことが終わったけど、絵の方はどうだい」
「大丈夫です。もうほとんどできました」
先生はマールの絵を覗き込む。
「ほら、やっぱり本業は違うよ。ガウシア君に描いてもらうよりよっぽど良い」
ガウシアも覗き込み、そして首をかしげる。
「そうでしょうか?」
◇◆◇
「さすが画家だ。芸術家! あの業者はちゃーんとした商売人でヘイズ族にもちゃーんとした食い物を与えている。だから質が良い。そいつを見抜く力がきちんとあるんだなあ」
褒められるのは悪い気がしないので、えへへと笑いながら余計なことは言わない。いや、謙遜することはないのかもしれない。あの少女を見たとき、ピンと来たではないか。あれだ、あれが、感性なのだ。自分にもそのような感性があるならば、それはなんと嬉しいことであろう。
三人はひとまず街中にもどり、適当な喫茶店を見つけて入った。ガウシアはテーブルの上に紙を広げて、以下のような数字を書き並べた。
フリクエント:157, 167, 147, 167, 160, 161, 163, 167, 154, 169
ヘイズ:159, 170, 157, 159, 158, 173, 155, 145, 147, 157
「何ですかこれ?」
「先生の邪魔をしないように」
「かまわないよ。まったくガウシア君は過保護なんだから。ちょうどいい。説明をしながら考えていった方が思考は整理されるものさ。マルチコ君、これはねえ、“商品”の身長さ。より正確に言えば、ある業者が所有する30代の男奴隷の身長だね。本当は女のデータも欲しかったけど、そっちはもらえなかった」
「教えてもらえるものなんですね」
「いやいや。奴隷はレモン、買ってみなけりゃ分からない、と言ったもんだ。市場でいくら手にとっても、その質はわからない。売り手と買い手には情報の非対称性がある。これで連中は儲けるんだよ。逆に言えば、情報を手に入れるのは非常に困難というわけ。業者の男の寝酒に一晩中付き合う必要があったんだよ!」
「まったく」
やれやれ、といった表情のガウシア。
先生の話は、あながちホントウというわけではないのだろう。
「あんまり言いふらすべきではありません。正確にはもらったのではなく、見せてもらっただけなのですから」
「まさかガウシア君の頭に入れられて持ち出されるとは思うまい、くっくっ」
先生の黒い笑みにつられて、マールも笑う。えへへ。
そうするべき雰囲気、であった。
「さて、マルチコ君。朝の質問覚えているかい?」
「フリクエント族とヘイズ族、どちらを買うべきか、でしたっけ」
「そうそう。あの質問を、仮にこう変形しよう。“フリクエント族とヘイズ族に身体的な差はあるのだろうか”。体は頑丈な方が良い。もし差がなければ、値は落ちるヘイズ族を買うべきだ。我々にはあまり予算がないからね。だが、もし業者や世間の風潮のように、フリクエント族が優れた肉体を持つのならば、多少高い金を出してもそちらを買うべきかもしれない」
「な、なるほど」
「そこで身長を使って両者を比べることにした。まずは平均を出してみよう。全部足して数で割ると……」
フリクエント:
(157 + 167 + 147 + 167 + 160 + 161 + 163 + 167 + 154 + 169) / 10 = 161.2
ヘイズ:
(159 + 170 + 157 + 159 + 158 + 173 + 155 + 145 + 147 + 157) / 10 = 158
「フリクエント族の方が3cmも平均的に高い! ということは、やっぱりフリクエント族の方が強い身体を持っているってことですよね」
「さて、どうだろう。その3cmは本当に意味がある差だろうか?」
「……えっーと、意味がある?」
「先生がおっしゃっているのは、ただの偶然かもしれないということだ。フリクエント族、ヘイズ族はそれぞれ何十万人にもいるんだ。今回ヘイズ族から選んだ10人がたまたま身長が低かったかもしれない。例えば、ヘイズ族の八、九番目。こいつらがもし、それぞれ165cmだったらどうなる。同じ10人の中に173cmがいるんだ、別におかしくはないはずだ」
そう言って、ガウシアは紙の端に同じように数字を書いていく。
ヘイズ:
(159 + 170 + 157 + 159 + 158 + 173 + 155 + 165 + 165 + 157) / 10 = 161.8
「あ、ほとんど同じですね。というか、ちょっとヘイズ族の方が高くなった」
「もう一度問題を考えよう。この3cmは本当に意味がある差※1だろうか?」
「……両民族、全員の身長を測ればいいんじゃないでしょうか」
「それができれば苦労はしないんだけどね」
ホントウニ、イミガアル、サ?
ううぅ。マールは頭を抱える。
頭を抱え込んで悩むマールの肩をたたきながら、先生は笑う。
「話を進めるぞ。抽象的な話だが、頑張れ頑張れ。それぞれの民族から、10人ずつ何度もデータを持ってきて平均をとる作業をしたとしよう。1000回やれば、1000個の"平均”ができる。当然、この平均にも平均※2がある。さて問題。“平均は平均の平均を中心にどれだけ散らばっているだろう”。『分散』※3を考えるんだ。散らばりは、それぞれの身長から民族の平均を引いて二乗、そして(データの総数-1)/データの総数 で割ってやることで得られる※4。……えっと、ガウシア君お願い」
フリクエント:
((157 -161.2)^2 + (167-161.2)^2 + … + (169-161.2)^2) / (10-1)/10 = 4.862
ヘイズ:
((159-158)^2 + (170-158)^2 + … + (157-158)^2 )/ (10-1) /10/10 = 7.467
「ヘイズ族の方が……大きいですね。つまり、ヘイズ族の身長の平均はより散らばっている、ということでしょうか」
「そのとおり! より散らばっているということは?」
「……各平均がより平均の平均から離れた値として出てくる?」
「大正解! マルチコ君すごい! で、その意味するところは?」
マールは再び頭を抱え込む。
「勘弁してください」
先生がちらりと目配せすると、ガウシアは左右対称の何か山のような図を描いた。
「横が身長の平均、縦がその身長である人の人数だ。どちらかの民族、三十代男性からランダムに1000回10人分の身長データを集め平均を計算する。時には10人が高身長な人、時にはその逆もあるだろうが、1000の繰り返せばバランスが取れる。直感的にも、おかしな話じゃないはずだ」
先生が言う。
「このヒストグラムから身長の平均は『150cmである確率が一番高い』とと解釈できる。このように“ある値”(x)と“そのおこりやすさ(確率密度・density)”(f(x))を合わせたものを『確率分布』と呼ぶ。特にこのように平均を中心に左右対称になる分布を『正規分布』※5と呼ぶ。数式で書くとこんな感じ」
「正規分布がすぐれものなのは、たった二つの部品、平均:μ(ミュー)と標準偏差:σ(シグマ)が分かっていれば、ある身長の平均が得られやすさ(確率密度)が分かってしまうということだ」
「え……えっと。はい」
ううむ。
いや。
なにがなんだか。
「さきほど我々は二つの民族の平均とその分散を求めた。これを使えば、こんな風に分布が描ける※6。」
「繰り返しだが、それぞれの平均の上に分布の天辺がくる。そこで話を戻そう。3cm。この差に意味があると思うか?」
「え、ええと。確かにこう見てみると、あんまり違わないような。いや、うーん……」
「そいつを判断する方法はあるんだが、これ以上は考えるのはやめようか。マルチコ君の頭が茹であがる」
頭を抱えて唸るマールをよそに、先生は何かをかりかりと書き始める。先生の手元を覗き込んでガウシアが言う。
「パッと見た感じでは、“差があるとは言えない”といった感じですね」
「だろうねえ。そもそもある一つの民族を我々の国から見て便宜的に分けただけだから、あるわけないっちゃあないだろうよ」
「へえ、知りませんでした。何をもってして分けられたのですか」
「河の東西に住んでいたとか、我々の神を受け入れたか入れなかったとか」
「なんだか私はフリクエント族の奴隷を買うべき思えてきました」
「いや、鶏が先か卵が先かみたいな話。教化された人々をフリクエント族と呼んだのか、フリクエント族と識別された人々が我々の国と関係を強めるために教化を受け入れたのか」
先生は計算を続ける。
顔にかかる前髪を払って、ガウシアが言った。
「ええ。おそらく買いはヘイズ族でしょう。“ヘイズ族は劣った民族である”という風説がどこから来るのかを考えれば、きっとそうなります」
「そのほうが君も気が楽だろうよ、ガウシア。見ろ」
先生の鉛筆が止まった。
0.37
マールにはその数字の意味が分からなかった※7が、二人の表情から察することができた。
「やはり差があるとは言えない」
「同じ、ということですか?」
「いや、差がないという仮説を“棄却できない”ということだ※8。」
「???」
「ガウシア君。あとはまかせた」
承知しました、と小さく返事してガウシアは店を出ていった。先生は満面の笑みを浮かべ、ガウシアの背に大きく手を振る。
ガウシアの姿が見えなくなると、先生が言った。
「マルチコ君は甘いの好き?」
計算をしていたときの険しい表情は消え、一瞬にして人懐っこい顔に戻るものだから、マールは面を食らった。
「は、はい、好きですけど」
「頭を使った後は酒か砂糖が必要だ。遠慮はいらないよ。ガウシア君が消えたんだ。先に会計してしまえばわからない。おねーさん! 砂糖とミルクだぶだぶに入れた珈琲を二つ!」
※1 有意な差があることと実質的に差があることは別です。集団間に差はあるのは当然で、ただその差に意味があるかどうかは別です。それぞれの民族全員の身長を測って差をとったところ、0.001cmの有意な差がありました、と言われても、その差にほとんど意味がないようなものです。
※2 平均の平均(本当は期待値といった方が正確ですが……)。標本平均です。何度も繰り返して抽出された平均の平均は母集団の真の平均(母平均)と一致し、これを不偏性を持つといいます。また大数の法則により、サンプルサイズを大きくしていくと標本平均は母集団における真の平均と一致します。一致性を持っているとも言います。
※3 正確には、ここで言及されているのは、標本分散です。
※4 なんで、n-1で割るの? と疑問に思ったひとは、「不偏分散」で検索してみよう! いや、ここらへんはややこしく、統計学を学ぶ始めると際の最初の躓きポイントなのでやっぱりやめたほうがいいかも? はじめは「そんなもの」と割り切ったほうが良いのかもしれません。
※5 ちょっと歪んでいるけど気にしない気にしない。他にも、ベルヌーイ分布だの、ポアソン分布だの、ガンマ分布だの、ベータ分布だの分布は沢山あり、それぞれの形状、パラメータ(ここでいう部品)を持ちます。そのうち、正規分布以外もでてくるかもしれません。いずれにせよ中心極限定理により、標本平均の分布は正規分布になります。
※6 ここでは省略しましたが、boxplot(箱ひげ図)という、群ごとに値がどのように変動しているか把握するにうってつけな作図方法があります。そっちの方が本当はいいのでしょうが、IQRやらなんやらが出てきてしまい、説明がややこしくなってしまうので……。
※7 P値と呼ばれるものです。ここでは有意水準5%で、等分散性を仮定しないt検定、いわゆるwelchのt検定を行っています。正しい仮説検定の手続きやP値の解釈は、非常にややこしく、解説を始める大変なことになってしまいますので、ここでは割愛します。実際のところ、これらは間違った使用・解釈をされることが多く結構問題になっています(作者自身も正直自信がないです)。なお、よく言われますが伝統的(頻度主義)統計学では「帰無仮説が(1-P値)%の確率で正しい」と言うことはできません。ちなみにベイジアンならできます。
※8 回りくどい言い方ですが、ここで行われている仮説検定の枠組み上では、“差がないという仮説”が正しかった、ということができません。既に述べている通り「統計的に有意な差がある」と「実質的に差がある」は同じではないということに注意が必要です。ここで、ガウシアが選択するにあたっておかれている状況を繰り返しますと、「フリクエント族とヘイズ族の身長の平均に差がないという仮説を棄却できない」となっています。




