トモア5
「使用済みの茶殻を安く買うんです。そんなんでも漉すと多少味が出るんですよ」
「本当かい、そりゃあ」
「ええ、そのうち舌が慣れるというか、だいたいこれは何番目のお茶だなあと分かるようになりました。……、先生?」
大きく開かれた目に宿る好奇の輝き。
マ-ルは思わず感心してしまう。いやはや、なんと自由に動く顔なのだろう。
「確かめてみたい」
「はい?」
「マルチコ君は、……というより、人間はその紅茶が何番茶なのかきちんと把握できるのだろうか。できるのならば何番茶まで? いや私の師匠筋に当たる先生※1が、ミルクと紅茶、どちらを先に入れたか、それを人間は見破れるか、という実験をしたことがあってねえ……おっと退屈な話だった!」
かわいい人だな、と思う。
「どうぞ、続けてください」
先生が座る場所はちょうど裏口のそばであった。小さな窓が付いていて、取り込んだ光が手元を照らしている。毛が薄く、柔らかそうな手。先生という仰々しい名より、お転婆なお姫様といった方がふさわしいのかもしれない。実際そうではないか。一番建物の奥に据えられて……。
そこまで考えて、マールははっとした。というのも、仮に正面出入り口から暴漢が侵入してくるとする。そうなると、ガウシア、そしてマールの席は先生から見て、ちょうど肉の衝立になるのである。そして、退路となる裏口……。
いやいや。
考え過ぎだ。
治安の悪い“窟”に長く住み過ぎたのだ。すっかりこの手の危機管理技術に慣れ親しんでしまっている自分に嫌になる。それに席の位置取りにおいて、先行したのはガウシアである。先生は関係ない。
変なことに巻き込まれないといいけれど……。
この眼前の柔らかな表情の裏に、なにか得体の知れないものが隠れているのではないかという直感がマールを浮足立たせる。先生との会話は上の空になっていく。マールの様子に気付いているのかいないのか、先生は変わらずぺらぺらと口を動かし続け、話はガウシアが返ってくるまで尽きることがなかった。
「お、さすが早いねえ!」
「お待たせしました。ここで話すのも何なので、歩きながら話しましょう。会計は済ませましたか」
「いやまだ……あっ」
ガウシアは懐から財布を取り出し、女給を呼んだ。
◇◆◇
が、先生は懲りない人と見えて、陽気に口笛を吹き、大股で二人の一歩先を歩く。朝とは違いさまざまな店が開いている。たくさんの色に匂い。買えなくとも興味が惹かれる。
「小柄な少女です。歳は十二ぐらいでしょうか。あれなら連れて歩いても問題はないし、よしんばよからぬことを企んでも、大人二人で取り押さえられるでしょう」
「小柄って。病気じゃないだろうね」
「ええ。歯茎を剥いて確認しました。きれいなピンク色でした」
「そりゃ馬の見分け方だ」
あはは。
マールもとりあえず笑っておく。
ガウシアは基本無口なタチらしく、話すべきことを話し終えるとそのまま押し黙ってしまう。だが先生が一方的に話しまくるので、それにうんうんと相槌を入れる形で会話を継続せざるを得ないようだった。二人の関係性がなんとなくマールにも分かってきた。
三人はゆったりとした細い道を歩いた。
突然、先生が駆け出した。
「急げ、ガウシア君! マルチコ君! 雨にぬれてしまうぞ!」
ふかふかと飛び上がる帽子と鞄を押さえながら、マールも走りだす。
と、同時に、ぱんと帽子を大粒の雨が叩いた。
急げ、急げ。
水を限界までため込んだ海綿のような、雲。
教会の尖塔が見えた。
湿った土の臭いをのせて、晩秋の冷えた風が吹き始める。
不審な点は何一つなかったのだ。
だから、その瞬間何が起こったのか、マールには分からなかった。
先生の手がドアノブにかかろうとしていた。
マールの隣を、疾風のごとく影が、走り去る。
「先生!」
叫びつつ、ガウシアは己の体を先生にぶつけた。
全速力の勢いを叩きつけられ、先生は吹っ飛ぶ。
ドアノブが弾けた。
その内側からくり抜くように出てきたものは、先端が恐ろしく尖った寸鉄であった。
骨スキ。
マールはそれが腱を切るため、犬の脚に何度も叩きつけられているのを見たことがある。
たとえ骨に当たっても刃こぼれしにくい肉厚の刃先。
「クソッ!! 外した!」
野太い怒声に続き、戸が蹴破られた。
現れた男の身体は大きく、かまえる包丁が相対的に小さく感じられるほど。
「ライナー・リグレット!!」
見た目にそぐわぬ機敏な動きで、男は倒れこんだ二人までの距離を詰めた。そして包丁を振りかぶり、一直線、先生の胸元に撃ち入れた。
その光景を見たのか見なかったのか。
あるいは瞑った瞼の裏の光景だったのか、マールには判別できない。
時間にすれば数秒。
先生に覆いかぶさり倒れていたガウシアが身をひるがえし、突進してきた包丁の側面を、手の甲で外側へと払った。
ガン、という金属同士がぶつかり合う音が響いた。バランスを崩して男は正面に倒れこんでくる。ガウシアのもう片方の拳が男の腹へ吸い込まれるように叩き入れられる。
男が倒れると同時に、先生がすっと上半身を起こした。
「ガウシア君、これは早く発たんとダメだね」
「早急に準備しましょう」
「私の名前を知っていた。昔フッた女じゃないか?」
「ふざけている場合ですか」
「口を割らせるよりちゃっちゃとここを発った方が穏便でいいよ」
ガウシアが小屋の中から荒縄を持ってきて、男の体をぐるぐるに巻いた。
「四頭立ての郵便馬車を用意しています。馬は教会から借りていきましょう」
「司祭様を起こしてご挨拶だけ頼むよ。部外者の私が行ってもしょうがない。荷物はマルチコ君と適当に積んでおくから」
「ええ。あとでチャンバー様から正式にご連絡を入れていただくようにしましょう」
マールの全身は既に雨で濡れていた。
雨が本降りになっていた。
「あ、あの」
マールがどうしても解せなかったのは、二人があまりに冷静だったことだ。
まるで、この切迫した状況を想定していたかのように。
「マルチコ君!! 急げ!!」
聞こえていないのか、いるのか。ガウシアは何も言わずその場を去り、先生もまた、普段とは打って変わっててきぱきと指示を出す。濡れてはいけないもの物――火薬やら、毛布やら――を防水皮で包む。雨の中小屋と馬車を何度も往復し、後ろの幌に荷物を積んでいく。
面倒事だ。
どうしていつもこう巻き込まれてしまうのだろう。何の罰だろう。神も人も、呪ったことなどないのに。
マールは思わず自問自答してしまう。分かっている。考えたって仕方ない。運が悪かったとしか言いようがないではないか……。
夕暮れの静寂に雨がざあざあとなき、マールは全身濡れそぼる。
遠くから声が聞こえる。
「逃げるつもりかい?」
とっさに身構えた。
いつも通り、先生の優しい笑み。
帽子のつばから、ぽつりぽつりと大粒の雫が滴っている。
何故だろうか。動悸が止まらなくなった。
心臓を浚われたような気分。
同じ人ではない。決定的に何かが違う。
「逃げたってかまわないよ。でも、あちらさんは許してくれるだろうかね」
「……」
マールの回答を待たず、先生は言った。
「君は見た、行動を共にした」
「……はい」
「なあ、そうだよな。それに」
先生の顔が奇妙に歪んだ。
「マルチコ君。君は一体何者だ?」
「君は下着を穿いているね」
「君は“窟”にいた」
「なのにどうしてそんな金持ちの“真似事”をする」
「君は若く、可愛らしい」
「お世辞じゃない。だからこそ何故身体を売らなかったのか不思議なんだ」
「ねえ、マルチコ君。なんで君は画家なんだ? 何者なんだ?」
先生はマールを見下ろしたまま雨の中で動かない。
マールは思わず後ずさった。
苦しい。
先生の背後に隠れた何かに胸を圧迫され、息が吐けない。
「今しがた、聞くに堪えない話が聞こえてきました」
雨粒を払いながらガウシアが戻ってきた。
「へへ」
先生は不真面目な笑い声をあげた。
「教会の品位を貶めるようなことはやめてください」
「私はもう聖職者じゃないからね」
ガウシアはマールの様子を見て、やれやれと首を振りながら上着を脱いだ。
「マルチコ、前を隠しなさい」
雨で服が張り付き、下着の形が浮き上がっていた。少しの時間を置いてその意味を理解し慌てて前を隠すが、二人はマールの赤面など知ったこっちゃないという様子でてきぱきと準備を進めていく。
「このまま港に行って、先に船を押さえてしまえ。買った奴隷はそっちに送ってくれるように手紙出して。のこのこトモアの街に戻ったら面倒だぞ」
「だいぶ遠回りになりますが仕方がありませんね」
ガウシアがハーネスを持ってきた。馬と馬車を接続しようとしている。
マールには何一つ訳が分からなかった。
あれを聞こうにも、これが分からない。これを聞こうにもあれを知らぬ。
不明なことが積りに積もって、ようやく口に出てきたのはたったの一言。
「あなたがたは一体何者なんですか?」
先生は馬車の荷台に上り、マールを見下ろしていた。
ひるがえった雨具の中に短銃が見えた。
「教会付きの兵隊さん。北に向かってひたすら行軍するんだ」
……行軍?
まともじゃない。
たった三人の軍、そんな馬鹿げた話があるのだろうか。
「とあるブツを探しなさいと、私が戴く枢機長様のご命令なんだよ。そらマルチコ、着なさい」
どさっ。
ガウシアが合羽を放り投げる。
「我々に付いてくれば当分面倒の渦中に叩き込まれる。だが、まだ引き返すことはできる」
「いや、できないぞ」
「やめてください先生。かわいそうですよ」
先生が笑った。
なんと眩しい、“良い”笑顔なのだろう。
「私からに見るにマルチコ君、君は“ワケアリ”の女だね。どうだい、ついてこないか。ともに偉大なことをしないか。塵……」
「塵と芥に帰る前に、ですか。まったく」
ガウシアがため息をつく。
「偉大なこと?」
五つの文字が、胸に突き刺さる。
マールの反応を受け、先生は心底嬉しそうに叫んだ。
「“マシン”を見つけるんだよ!」
「いや、偉大かどうかは……」
「ガウシア君。静かに」
マシン?
そう問う暇もなかった。突如先生は馬車を飛び降り、マールの眼前に立った。マールの前髪をかき上げ、覗き込むように顔を近づけた。そして瞬きもせず、ただ目を凝視し続ける。
しばらくすると、ふん、と何か得心したような声を上げ、先生はマールの肩を抱いて強引に幌の内に引き上げた。そして振り返り、幌の中をごそごそと漁って取り出したのは、---酒瓶であった。
「マルチコ君は飲めるだろう。ねえ」
「ええ?、えー、……はい」
やけに重く、無骨なグラスがマールに手渡される。
マールは思う。
ああこれは。あの少女を“描かされた”ときと同じだ、と。
どこに行くのか知らない。“マシン”なるものも知らない。だが、この男を描かなければならないのだ。その確信から目をそむけたとき、それは自分が画家であることを否定するのと同じだ。
これは自由意志か。
おそらく違うのだろう。
そうだとしても、どうしようか。
「そら、濡れた服を脱ぐ前に一杯飲みなさい。これが生命の水というやつさ」
茶色の液体がきっちり30ml注がれる。
雨露の中でも分かる、薬のようなその泥炭香は強烈だった。
「さあ、飲め。それを飲め、マール・チコル。一気に飲み干すんだ」
マールは目を瞑り、一気にグラスを傾けた。
舌が焼け、フェノール値55ppmの煙たさが鼻の奥まで貫いた。
それは言いようもなく、美味かった。
◇◆◆
「なに、港に送れって?」
「手紙が今ほど来まして。直接引き取りに来ることができなくなったとのことです。その分追加で金を出すそうですが」
「ならまあいいが。身体を洗ってすぐに出れるよう準備だけしておけ」
そう指示を受け、奴隷商の男はヘイズ族の女用の檻に入った。節約のために消していたランプの油に火をつける。そして目に飛び込んできた凄惨な光景に卒倒してしまった。
鮮血。
老人から子どもまで、口にあてた手の指と指の隙間から血が流れている。
尻もちをつく。地べたについた手のひらに痛みが走った。何か硬い棘のようなものが刺さっていた。
それは歯。
根元から折れた、白い前歯の破片だった。
慌てて手から引き抜いて、周囲を見渡す。
沈黙? そう、重苦しく、抑圧された空気。緊張。
すすり泣き声一つ、上がらない。
男は慌てた。状況の異様さもそうだが、まともな商品がなくなってしまったことも問題だった。物を噛めない動物は、食事が取れず衰弱していく。そんな商品を誰が必要とするだろう。幸いなことに保険があるが、早急に港に送らなければならぬ商品はどうしたらよいものやら。この檻の管理は男に一任されており、対応如何の責任は男に圧し掛かってくるのだ。
そのとき、男は気付いた。
口から血の出ていない“例外”が、たった一人、眼前で静かに座っていることに。
※1 ご存知、Fisher御大の逸話です。




